
dreamer

Mirror
Avg 3.7
記憶は時として、まるで思いもかけぬところから、不意に現われ、どうしようもない疎隔感を与えたまま、まといつく。 そこに悔恨や反省を滑り込ませれば、余計にそのもどかしさは募っていく。 二度とやり直しの出来ぬ辛さ、決して実在感を与えぬやりきれなさは、痛みを痛みとして甘受できぬこと、傷を傷として知覚出来ぬことと似ていると思う。 それは何らかの形で対象化されなければ、逃れることの出来ぬ桎梏であるが、アンドレイ・タルコフスキー監督の映像は、それを見事に描き出していると思う。 鏡に映る像は、そこにあっても決して触れ得ない。そこに横たわる不可能性を了解した時、彼女に出来ることは唯一つ、その前で寂しく微笑んでみせることだけだ。 その姿は像として、記憶の中に定着する。すると、今度は逆に映し出された像、すなわち、記憶の中の彼女が動き出すのだ。 この反転が、恐ろしく甘美な幻想を紡ぎ出すのだ。 だが、この幻想は、父親の不在という現実を源泉にしている。 それは直截にソ連の歴史と重なり、鋭い悲哀となって現われてくる。 風の吹き抜ける草原の空虚感は、一人の女に支えきれぬ重さを持っている。 そこには、より多くの者の悲哀が潜んでいる。 過去の亡霊に脅かされ、未来を夢見ることの出来ぬ者の悲哀だ。 だが、ごく私的なものである筈の記憶が、歴史と絡み合い、巨大な人々の悲しみとなって表わされ、再び個人のもとに帰って来た時、これに抗する力はどうしても個人の内部から生み出さなければならない。 「深い時の森を抜けてきた。私は自らこの世紀を選ぶ-----」という詩句は、彼女の全てを許しているような寂しい微笑によって、静かに肯定されている。 それは、悲哀に押しつぶされずに受け止めることの出来る力強さだ。 そして、鏡を通り抜けた記憶が、ラストシーンで見るものは、未来も過去も全てこの現在にあるという、あのまといつく疎隔感を打ち破る光景だったと思う。