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脚本はイーサン・コーエン。無口な理髪師の男があるきっかけで殺人を犯してしまい、平凡だった暮らしが崩れていく。コーエン兄弟によるフィルムノワールの傑作。 全編白黒の映像で、ゆったりとしたカメラワークとべートーヴェンの楽曲が感情の起伏の少ない主人公のモノローグに寄り添い、落ち着いたトーンで物語は進んでいく。 物語内で巻き起こる事件は悲劇的でハードな物が多いが、主人公がそれぞれの事象に感情的になることは殆ど無く、内省的で独特な雰囲気が心地良い映画体験をもたらしてくれる。 そういった語り口の中、主人公の視点から観られる周囲の人物の個性は、ある種の違和感として、シュールなユーモアのある雰囲気づくりの印象的な要素となっていた。 光の陰影の映える綺麗な構図が多く、内省的な独白とそれぞれのシーンがマッチして意味深い印象が与えられた。 押し売りに近いセールスマンをの営業トークを遮ること無く聞き続けるシーンに象徴されるように、主人公には他人に主張し、押し付けるような確固たる自我は無く、もたらされた職と家庭を基盤に、平和で平凡な暮らしを営んできた。 だが平凡でありながらどこか孤立した思いを抱えていた。 社会を構成する人々の多数は平凡で、中流に属する人々であり、それなりの幸せとそれなりの忙しさに身を任せて生きている。 そういった一人一人が心の何処かに抱えているであろう虚無感に近い感情を静かに代弁するような映画であったように思う。 ラスト、処刑場の真っ白な空間は映像的なカタルシスだった。電気椅子の上で主人公が妻に向けた、「そこ(死後)でなら伝えることができる。この世の言葉では表せないことを…」という台詞が印象深い。形を成すことは無く、その思いをちゃんと伝えることは出来なかったが、妻を思う気持ちが、確かに胸の内にはあったのだった。
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