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テキトー評:ついに「短編の名手」であった新海誠の長編作品が大規模公開される時代が来た。 しかし、彼の特徴である「過剰なモノローグ」と「緻密すぎる背景描写」はどうしたって長尺な映画には不向きであり、 寡作な作家としてこれからもコアなファンに好かれながら細々とアニメを作っていくのだろう、とぼくを含めほとんどの人が信じて疑わなかったはずだ。 ところが彼はそれを最高の形で裏切ってみせた。 なんと「すべての過去作をひとつの作品に入れ込む」という自らの作家生命を縮めかねないアイディアを用い、 それでいてノーラン並の複雑な設定をシンプルなストーリーに仕上げる強靭的な構築力を発揮し、 かつ興味を持続するために短編の時間間隔でまさかのジャンルミックスを果たすという、とんでもない快挙を成し遂げてしまった。 不安材料であった「過剰なモノローグ」は、新海誠とおなじく十代的感性を持ち続けているRADWINPSを実質的なもうひとつの主人公にすることで、 音楽と共鳴し合い題材と心情をドライブさせることに成功している。 山崎まさよしでは背伸びしすぎだったのだ。これこそが新海誠の等身大なのだ。 かつて宮崎駿は、自然に肩入れし、人間を異物と認識させるような作品ばかりを作ってきた。 緑豊かな大自然こそが地球の主役である、という説教じみた主張は彼の作品を個人的に好きになれない大きな要因でもあった。 その点、新海誠の視点は面白い。 「屹立する木々や天に広がる星々の煌き」と同等に「そびえ立つビルや人工的な街の夜景」も尊く美しいとものだと考えているのだ。 そこにサイケなほど幻想的な彗星が交わり、やはりこれはアニメでしか表現し得ないものだと「緻密な背景描写」がかつてないほどの説得力を帯びてくる。 この映画を観た人はみな、飛騨も東京も素晴らしく尊い場所だと思えたに違いない。きっと新海誠自身が、そう強く信じているからだ。 観客に「どちらの世界も素敵だ」と思わせることこそが真の意味での「共存」ではないのか。 しかしここまで集大成的作品を観てしまうと、抱く感情は「心配」である。 明らかにやりたいことをぜんぶ出し尽くしていて、「おいおい、この先どうすんのさ」と突っ込みたくなってしまう。 でも出し惜しみをしない姿勢は作家として愛される条件だ。 これでたくさんのファンが生まれたに違いない。田舎のレイトショーだというのに、上映終了後に巻き起こった拍手には仰天した。 スタジオジブリでも、スタジオ地図でもなく、これからの日本のアニメーション映画の先頭に立つのは新海誠なのかもしれない。 そんな風に応援していきたいと、いまは心の底から思える。
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