
dreamer

アマデウス
平均 3.7
"才能のない努力家の天才に対する嫉妬を、老獪さ、卑怯さ、悪意、陰湿の視点から面白おかしく描いた人間ドラマの秀作 「アマデウス」" この「アマデウス」という映画は、原作がイギリス人のピーター・シェーファー、監督が当時のチェコスロバキアの映画界から亡命してきたミロス・フォアマン、主人公はオーストリア人で、物語の舞台は、ウィーンという、アメリカ映画なのにアメリカ的な要素が一つもない作品なのです。 「アマデウス」という映画は、従来あまりなかったタイプの面白い人間ドラマだと思う。 原作のピーター・シェーファーの戯曲は、日本でも過去、何度も舞台で上演されて評判となっており、その着想がまず、あっと言わせる面白さに満ち溢れている。 西洋音楽史上、最も偉大な作曲家の一人であり、文字どおり楽聖と呼ばれるに相応しい人物であるモーツァルトが、この映画ではとんでもない俗物として描かれているのだ。 実に安っぽい、下品な青年であり、エッチな冗談ばかり言って不作法にケラケラ笑っている。 天才らしい反権威主義的な傍若無人の奇行というのではなくて、それが本当に、品性の下品さからくるものだった、というのが意表をついている。 ただし、品性が下品だといっても悪気のある人間ではなく、むしろ、それは無邪気さからくるもので、大きくなっても悪ガキみたいな人物だったということになっている。 そういう知性も才気も全然、感じさせない、男らしい魅力なんてものもまるでない、むしろ道化師みたいな人物としてのモーツァルトを、これも別にどうってことのない新人俳優のトム・ハルスが演じている。 そんなバカなことがあるものか。こんな下卑た奴に、この世のものとも思えない、あの優雅で繊細な曲が書けたはずがない、と一応は誰でも思うわけだが、それに対してこの物語は、芸術家にとっての天才と品性は無関係だと、ぬけぬけと言い張っているのだ。 考えてみれば、それもそうかもしれない。確かに、それは一面の真理だと思う。 昔のいわゆる楽聖映画などは、芸術家をあまりにも崇高に描きすぎていたと思って、この新説を楽しめばいいのだと思う。 この物語の重点は、モーツァルトの品性を貶めることよりも、むしろ、そういう一つのフィクションを設定することを通じて、才能のない努力家の天才に対する嫉妬を面白おかしく描くことの方に置かれているので、あまりムキになって気にすることもないと思う。 アマデウスというのは、モーツァルトの正式な名前のウォルフガング・アマデウス・モーツァルトからきているのだが、この作品の主人公はむしろ、彼の才能に嫉妬するあまり、遂に彼を毒殺するに至るウィーン宮廷のお抱え作曲家のアントニオ・サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)だ。 彼は凡庸な努力家で、自分はこんなにも努力しているのに、神はこの自分に才能を与えないで、あの下卑たアマデウスに天才としての才能を与えている、神はけしからん、不公平だと憤慨するのだ。 実際、人間というものは、平等にはできていないし、そのために腹立たしい思いをすることは誰にもあるものだ。 だから、この凡庸な努力家の言い分には一理ある。 と同時に、人間誰しも、それを言ったらおしまいだ、という常識も持っていて、その腹立たしさを理性で抑えているわけだ。 ところが、この凡庸な努力家は、その抑えの効かない困った奴なのだ。 映画を観る側の我々としては、なまじ彼の言い分に共感できる面があるだけに、そういう考え方に共感する自分を肯定するわけにもいかず、そういう自分の考え方を抑える代わりに、この凡庸な努力家を軽蔑することになるのだ。 そして、サリエリが、嫉妬のあまり愚行を重ねれば重ねるほど、なんて愚かな奴だろうと思い、サリエリを演じるF・マーリー・エイブラハムが、この人物をいかにも愚か者らしく演じれば演じるほど、この愚か者めが、自分の分を知れ、と嘲笑を浴びせて楽しむことができるのだ。 その年のアカデミー主演男優賞のほか、各映画賞を総なめにしたF・マーリー・エイブラハムという役者のうまいところは、観客からバカにされて笑い者にされる役でありながら、憎めず、かつ観ていて他人ごととは思えないほどの切実なリアリティも感じさせるところなのだ。 つまり、ただの憎めない愛嬌者の道化師ではないのだ。 むしろ、陰気で重厚でさえもありながら、道化でもあるというところが、実にうまい。 そして、この男が、嫉妬という、誰にでもある、つまらない、しかし手に負えない感情の愚かさをむき出しにして、徹底的に笑わせてくれるためには、アマデウス・モーツァルトがバカまる出しの安っぽい人間であればあるほど効果的なのだ。 というわけで、モーツァルトに関しては、果たしてこれほど軽薄な青年に、あんなに精神的な深みのある音楽が書けるものだろうかという疑問は、必ずしも納得されないまま、しかしこの設定は、一つの素晴らしい冗談として面白く受け容れることができるわけだ。 しかし、さらに考えると、これは必ずしも冗談でもないかもしれない。 現に過去の歴史において、似たような状況は、実際に起こっているのだ。 1950年代のアメリカに、エルヴィス・プレスリーが登場した時、また1960年代のイギリスにビートルズが現われた時、世間の大人たちは誰しも、なんという軽薄な若者かと思ったものであろう。 それが見る見るうちに"天才"と評価されるようになり、ビートルズに至っては、不良少年のイメージのまま、なにやら世界の音楽界に革命を起こした偉大な芸術家のように見なされてしまったのだ。 彼らをただの不良だと見た者は、肩をすくめて、どうせ俺なんかは凡庸さ、コツコツ努力したところでタカが知れているんだ、と苦笑して、不良の方が成功するように見える社会の風潮に対する不満を持て余すのだ。 プレスリーやビートルズのような大物だけではない。 マスコミでもてはやされる連中の相当部分が、そんな風に見えるのが現代の社会というものなのだ。 そして、この持て余した、その気分は社会全体に随分と澱のように溜まっていると思う。 そういうモヤモヤした、あまり愉快でない感情に対して、この映画は一種の解毒剤のような意味を持っているのかもしれない。 この映画は、「凡庸なるサリエリよ、天才は同時に人間的にも高級なはずだと思いたがる迷妄から覚めよ。奴らを自分と比較することを止めよ。そうすれば嫉妬に身を焼いて自滅することもないであろう」と語っているかのようなのだ。 また、内容的にも、アメリカ映画好みの正義とか勇気とか善意とか明朗さ、快活さという要素は一つもなく、老獪さ、卑怯さ、悪意、陰湿さなど、ことごとくその逆のもので出来ている。 しかし、ではこれは要するに、ヨーロッパ的な映画であって、非アメリカ的なものかと言えば、必ずしもそうとも言い切れない。 快活ではないが、陰気というわけでもなく、それを逆説的に途方もない陽気なバカ騒ぎに置き替えているあたりは、アメリカ映画ならではの特色だと思う。 原作の戯曲は、以前、舞台劇を観たかぎりでは、もっと辛辣で、この映画のように陽気ではなかった。 この映画化作品は、ほとんど躁病の世界だと思う。 アメリカ映画が、それまでの得意としてきた度外れの陽気さというものの裏側まで描くようになったのだと思う。 アメリカ映画は、こうして己の世界を拡大深化させるために、ヨーロッパ勢の力をどしどし取り入れて、文字どおり世界映画になっていったのだ。