レビュー
この映画「ミーン・ストリート」は、マーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロの出世作であり、夜のニューヨークの息づまるような雰囲気の中、はけ口の見つからない青春の苛立ちを繊細に描いた作品だ。 ロバート・デ・ニーロは、基本的に古いタイプの、正統派の俳優だと思う。 完璧に「演じ切ってしまう」ことしか考えない。 普段の自分の「持ち味」だの「個性」だの「パーソナリティ」なんかはどうでもよくて、他人に「なりきる」ことしか考えない。 多分、彼にとって一番苦手で興味もないのは、いわゆる「地のままの演技」というものだろう。 彼の自己顕示欲や表現欲の全ては、自分以外の他人に変身することに捧げられてしまっている。 デ・ニーロにとって、現実場面での自分なんかどうでもいいのだ。 他人に変身し、自分の正体をくらましてしまうことが、この上もない喜びなのだ。 それが最高の解放感であり、充実感なのだ。 演技こそ全て。仮面こそ真実、虚構の中にしか本当の自分はいないのだ。 演技をすること=変身することに対する一直線な徹底ぶりにおいて、ロバート・デ・ニーロはまさに「俳優の中の俳優」だと思う。 俳優が天職という人だと思う。 他人に変身し、自分の正体をくらまして喜びに取り憑かれた男------。 この「ミーン・ストリート」は、俳優ロバート・デ・ニーロにとってホップ・ステップ・ジャンプのホップに当たる作品だ。 この映画のジョニー・ボーイ役で注目を集め、翌年「ゴッドファーザーPARTⅡ」でステップし、その2年後「タクシー・ドライバー」でジャンプしたのだ。 「ミーン・ストリート」は、マーティン・スコセッシ監督と初めてコンビを組んだという意味でも記念すべき作品だ。 世界の映画界で監督とスターの名コンビのベスト3を選べと言われたら、黒澤明監督と三船敏郎、ティム・バートン監督とジョニー・デップ、そしてマーテイン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロだろう。 スコセッシ監督もデ・ニーロも共にイタリア系アメリカ人で、子供時代をニューヨークのリトル・イタリー周辺で過ごした。 芸術家夫婦の一人っ子だったデ・ニーロは、やせっぽちで青白い顔をしていたので、「ボブ・ミルク」と呼ばれていたそうだ。 そして、「ミーン・ストリート」は、二人が生まれ育った、このリトル・イタリーが舞台になっているのだ。 デ・ニーロが演じているのは、どうしようもなくグータラでチャランポランなジョニー・ボーイという青年だ。 悪魔的に周囲に迷惑をかけながら、本人はどこか天使のようにあどけなく、無垢でチャーミングというキャラクターなのだ。 若いデ・ニーロは、まだすごく細くて、確かに肌がミルクのように白くて、ヘンテコな黒い帽子をかぶった姿は、マンガ的でファンタジー的だ。 喧嘩をして泣き出す時、子供そのもののように顔が崩れていくところなど、さすがに上手い。 実は、この映画の主役は、ジョニー・ボーイの親友チャーリー(ハーヴェイ・カイテル)の方で、聖職者になろうか映画監督になろうかと迷ったというスコセッシ監督の内面が、強く投影されているように思う。 私はこの映画の根底に流れている"宗教的葛藤"は、よくわからず、ひたすらリトル・イタリーという街の、特に夜の匂いと、分別の定まらない若者たちのイライラ、ムシャクシャにばかり惹かれたのだが、そこはさすがにスコセッシ監督、すでにして音楽の使い方とカメラワークに才気たっぷりのセンスの良さを見せつける。 特に、ハーヴェイ・カイテルが、ローリング・ストーンズの「テル・ミー」に合わせて踊るシーンと、ビリヤード場での喧嘩を長いワンショットで撮っているシーンと、ハーヴェイ・カイテルが、酔っ払って倒れるシーンの人物と背景がズレて動いているような不思議な映像、そして、冒頭の8ミリ映像には、まさしく、"映画を観ている!!"という至福の喜びを感じてしまう。
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