
dreamer

鬼畜
平均 3.5
"人間の心の奥底に隠している鬼畜をテーマに人間の根源的な業による哀しみを描いた秀作「鬼畜」" この松竹映画「鬼畜」は、松本清張原作、野村芳太郎監督、川又昴撮影、芥川也寸志音楽という名作「砂の器」と同じチームによる作品です。 松本清張の原作は、「研ぎ澄まされた短刀の鋭さと輝きをもった短編で、読んでいて身の引き締まる思いがする。私は、その中に、人間の弱さと恐ろしさの凝結を感ぜずにはいられない」と、野村監督は語っていますが、この原作は、昭和32年、松本清張の知り合いの検事から聞いた実話をもとに書かれたもので、著者自身の回想として、「当時、彼は世間に有名な二つの汚職事件を手掛がけて、その名前は、広く知れわたっていた。だが、検事として有名になるのと、その出世コースとは別ものである。二つの疑獄事件は、政財界をゆるがすほどのものだったが、例によって圧力がかかり、結果的には竜頭蛇尾のものとなった。その検事は左遷させられ、司法研修所の教官になってクサっていた」と彼の「傑作短編集」の解説の中で書いています。 この事から容易に推測される河井信太郎検事が、どのような心境でこの事件を原作者の松本清張に語ったのだろうか? 新聞紙上でたまに見かける"子殺し"の記事に対して、人はそれを「鬼畜」と呼び、「人でなし」と最大限の非難の言葉を浴びせます。だが、そこまで追い込まれるような庶民の生活苦と肉親のしがらみから生まれた日本的な子供いじめを、誰が責める事ができるのだろうかという切ない思いにかられます。 巨悪を追い詰められず、「悪い奴ほどよく眠る」という現実との乖離が、河井検事の心に本当の鬼畜とは何か?----との思いをたぎらせたのかも知れません。 子供の時に親に捨てられ、苦しい見習い職人からたたき上げた、小さな印刷屋の主人(名優・緒形拳)が、小料理屋の仲居(小川真由美)に生ませた三人の子供を、商売の不振で生活が汲々としている折柄、突然、その三人の子供たちを押し付けられる羽目に陥ります。 言われてみれば、本当の子かも疑わしいその引き取った三人について、気の強いやり手の妻(岩下志麻)の過失ともいえぬ厳しい仕打ちで赤ん坊は死に、律儀で気の弱い亭主は、四歳の女の子を東京タワーに捨てに行かされ、最後には六歳の長男(岩瀬浩規)を、北陸海岸の断崖から海に投げ落とすというような、悲惨で救いようのない状況が描かれていきます。 一点の無駄のない松本清張の文章を、「赤ひげ」(黒澤明監督)の井手雅人のシナリオは、生まれながらの業病と貧苦を背負った宿命の父子の放浪を描いた「砂の器」に相通じる、徹底した入念さで、不幸で憐れな父と子の気持ちの交流を鮮やかに書き込んでいると思います。 そして、原作にはありませんが、印刷屋の主人が迷いに迷って北陸の船宿で、無心に遊ぶ子供を前にして、「実際、この世はひでえよな!」と酒をあおる場面や、助けられた警察で、犯人を必死に完全黙秘でかばい続けた子供が、持っていた"いしけりの石"が、石版用の石のかけらであった事から、犯人の身元が割れ、移送されて来た父親との対面で、「よその人だよ、知らないよ、父ちゃんじゃないよっ」と激しく拒む場面は、この映画で最も盛り上がる切なくも哀しい人間の業というものを表現していて、涙なしには観られない、映画史に残る名場面になっていたと思います。 子殺しという"救いようのない暗さ"を救っているのは、子供が助けられたと聞いて、却ってホッとする父親の残された人間味と、子供ながらに父親の立場がわかっていて彼をかばう六歳の子の健気さです。 そしてまた、東京近郊の川越あたりの風物や、能登金剛一帯の自然を情感溢れるカメラで撮った、川又昴カメラマンの美しくも儚さをたたえた映像美というものが、この悲劇を浄化しているように思います。 ベテランの川又昴カメラマンの、「カメラはただ俳優や風景を写すんじゃなくて、もっと主体的に、カメラ自身が自己主張していいと考え、映像による心理描写を重んじる」という、彼の撮影哲学からくる迫力ある画面構成と、日本の風土に根差した美意識が生む色彩感覚が、非常に光っていたと思います。 出演俳優の中で主役の緒形拳は、この役のオファーが来た時、あまりの非人間的な役柄だけに相当悩んだそうですが、彼なくしては、この子殺しをせざるを得ない状況に追い込まれた人間の、根源的な業による哀しみを表現出来なかったと思います。 また、他の出演陣で最も力演していたのが、鬼のような憎まれ役の岩下志麻で、七年間も夫に騙され続けてきた働き者の女性の屈辱が、残虐な報復に転じてもおかしくないような錯覚さえ覚えさせる彼女の演技はまさに、鬼気迫るものがありました。 撮影期間中は子役の子とは一切、接触を断って撮影に臨んだという彼女の役作りの凄さにも、あらためて感心させられます。 この映画の中の登場人物の中には、誰一人として本当の"鬼畜"はいないともいえるし、ある意味、人というものは誰でも心の奥底に"鬼畜"を隠しているのかも知れません。