レビュー
星ゆたか

星ゆたか

3 years ago

4.0


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歩いても 歩いても

映画 ・ 2008

平均 3.5

2022.5 《人生はいつもちょっとだけ間に合わない》この映画のキャッチコピー。 何かを行うタイミングがずれて間に合わないことに焦点が当てられたドラマ。 あの時‥‥言ってあげれば‥‥やってあげれば。 小野俊太郎さんの著者。〔『東京物語』と日本人〕に、この是枝裕和監督の作品は、小津安二郎監督の「東京物語」と「麦秋」の、〔換骨奪胎〕だとする見解があり、事実、是枝監督も『自分の根っことして持っていたある種のリアリズムを見つめ直している』と語っている。 〔換骨奪胎〕とは、辞書によると、“他人の詩や文の形式・着想などを少し変えて自分の作品に見せかけること、焼き直し”とある。だから私はこの映画に惹かれるのかもしれない。 物語の舞台となる父親の、横山医院やその亡くなった長男の名前の純平は、「東京物語」では、平山医院であり、戦死した次男が昌二であった。 そして「東京物語」では唯一、〔他人〕とし登場する戦死した次男の未亡人、紀子が一番家族に思いやりある行動がとれた。 「歩いても歩いても」では、次男の嫁として連れて来られた、ゆかりが唯一〔他人〕の存在で、冷静に一家の中に入って同じように気遣いを示す。わがままや身内の慣れ慣れしさのない、節度ある振る舞いだ。(その分気づかれもする) 是枝監督は、状況を与えておいて俳優に即興的な演技をさせながら、(特に子供達の演技は)作っていく。小津監督は、シナリオを完成させて台詞や所作をすべてコントロールする。違うタイプに思える。しかし隅々まで配置が考えられている所は同じ。 小津監督以外にも、敬愛する成瀬巳喜男監督、テレビドラマの脚本家の向田邦子さんや山田太一さんの影響もあるだろう。 例えば会話の中心になっている、親子の場面で、別の人がその話題をいったん中断させ、分け入ってくる。ここでそちらへ観客の関心をずらし、その後再び元の会話に戻す。(本作では子供の日常の動きが視覚をさらに) 大抵は、話を熱心にしているほうが、そこでいったん肩透かしをくらう。熱弁がトーンダウンし、場合によっては肝心な話の展開にならなくなることもある。 まさに私達の日常の会話そのもの再現だ。 その辺のテンポとリズムは、伝統の映画やホームドラマの見ごたえさである。 また向田さんの作品の持つ、女性の情念の深さ怖さ、したたかさだ。それは、登場してくる女性同士の言動に見られる。特に樹木希林さん演じる祖母に。   物語は15年前に亡くなった長男の命日に残った家族が集まった2日間を中心に描かれている。 他人の子供を救うために、かけがえのない息子を失ったことが納得できず、生き延びたその子供をわざわざ息子の命日に毎年呼んで、居心地の悪さを体験させるのが、両親、特に母親にとって、“恨む相手のいない死”へのこだわりになっていた。 また次男は、長男亡きの後継ぎ期待され重圧もあり、進路を医者でなく、美術修復士を選ぶ。絵画などの芸術作品を元に戻す職業。しかし現在は失業中。親への体面上、父親の心配の声には順調を装う。頑固な性格は似た者同士で、つい会話が刺々しくなる。 一緒に来た子連れの未亡人との結婚を母親は否定する。夫と死別している場合、死者の記憶には勝てないとした、息子を失った母親の正直な気持ちだ。 その嫁には、子供ができると、別れずらくなるから、作らないほうがいいなどという。穏やかに、みやげにこの着物をあげるなどと見せて喜ばせておきながら、本音はサラリと。 父親はかって溺れた長男を、別の急患で助けられなかった。そして閉院した現在、近所の知り合いの老婦人が危篤状態になった時にも、町医者として何より先に、救急車を呼んでもらうあんばいだ。 だから命日にお参りに来させた青年に、『あんな男のために、家のせがれが犠牲になって』の言葉に、次男は『やめてくださいよ、小さな子供のいる前で、人を見下したようなことを』と、長男よりいつも評価の低かった自分への思いを込めて言う。 二女は実家を改装して、一緒に住む提案を母親から、さりげなく断られる。二女の性格から孫達らとの同居の負担は目に見えている。家族はたまに会うからいい。また次男への配慮もある。そういった状況の家族の夏の数日間が綴られていく。 タイトルの「歩いても歩いても」は、1969年のいしだあゆみさんの「ブルーライトヨコハマ」(9週連続1位のミリオンセラー)から。 是枝さんが子供の頃聴いて、その“歩いても、歩いても”のフレーズに不思議な印象を持つたという。 本作では母親の夫の浮気を思いだたせる曲として使われている。本来は高度経済成長期の日本人の、恋する乙女の幸福な甘い思いが、当時を知る人達には、気持ちの良い歌として記憶されていた。 ただこの題名への思いは。 この老夫婦の納得しない長男の死。許してはいない夫の裏切りへの妻の恨み、また夫は妻の無遠慮な所を嫌いといった思い。 さらに親の子供への、また子の親への、期待や失望などによって立ちふさがる、心のわだかまり。 それらは、人生の道行きを“歩いても歩いても”、人間は成長したり成熟したりするばかりでなく、どこかで、ある地点で足踏みしたり、歩けなくなって立ち止まったりするものではないか、とする思いが込められている気がする。 全編に流れるギターサウンドが、実に穏やかで心地よい。まるで時間と場所と空気と、そこにいる人々を慈しむかのように過ぎてゆく。 親、子、孫、と受け継がれてゆく、魂を思う。 だからこの映画を見て、家族のわずらわしさ、温かさを感じ、なおかつ親孝行したくなったのなら。 日本映画が世界に誇る世界遺産、「東京物語」や「麦秋」を、かつて見て考じたような、その気持ちを是枝監督が、継承したということになるのかもしれない。


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