
星ゆたか

百花
平均 2.9
2023.8.3 先頃レビューした「怪物」(是枝裕和監督)のプロデューサーでもある。 川村元気(1979年横浜出身)さんの2019年出版による原作の自らの 映画化監督作品。 【認知症】の身内を抱えた経験のある川村さんに加え、主演の原田美枝子(1958年東京出身)さん、菅田将暉(1993年大阪出身)さんも同じように、すごく親しい人にその病について考えることが多いという、スタッフによって作り上げられた力作。 作家であり、脚本・監督でもある川村さんの、中でもプロデュースぶりの活躍は目まぐるしいものがある。 「電車男」(05)「君の名は」(16)「すずめの戸締まり」(22)などなど。 三歳の時「E.T.」を見たのを映画鑑賞の スタートに。 中学の時は父親と週末にレンタルビデオで、名作映画を見るのが習慣で。 多い年には、年間500本を超えたという。 物語は(葛西百合子の)母親女手一つで、息子泉を育ててくれた環境の母子。 息子は音楽関係の仕事で、同僚の香織と結婚し、まもなく妻が初めての出産を迎える。 泉は時々一人暮らしの家でピアノ講師をしている母を訪ねる。 妻の香織も劇中、泉と母親との関係が“何か普通と違う”と感じていたと話す場面があるが。 観客の私も見始めて、その違和感は感じた。(そういう演出) しかし最近その母親の様子が変で、病院の検査の結果。 アルツハイマー認知症の診断を受ける。 徘徊や同じもの(特に玉子やケチャップ~過去の愛人へのオムライス作りの影響)の買い物など。 また人の認知の判断も少しずつ後退していく。 泉は母がすぐ忘れることを、『こっちは忘れられないんだ』と。 病気のせいで訳の分からないことを時々言う母に、過去のある事を思い出し、苛立ち、つい声を荒げてしまう。 映画の初めにその百合子さんが自宅でピアノを弾く場面を。 自らが覗きこむシーンの“二度の繰り返し”。の演出。 これは『私最近おかしくない?』と内心自問自答してるポーズの映像化。 弾いている曲はロベルト・シューマン(1818~1856)の《トロイメライ》。 お馴染みの旋律。 この描写の〔認知症〕をある形に映像化した演出として上げた他の例に。 彼女のスーパーでの買い物の“三度の繰り返し”。〔タイムループ〕 そしてあるいは“現在”の認知症の彼女の為に雇われたヘルパーさんを。 息子の幼い頃の“過去”の人物に混同する場面などは。 【認知症】再現映画の傑作「ファーザー」 (20)に匹敵する出来!!。 その楽曲のシューマンは青年期から精神疾患を煩い、44歳で自殺未遂、46歳で精神病院で亡くなっている。妻のクララの献身的な支えと。彼の作曲した調べを、ピアニストの彼女が演奏した実績が記録されている。 《トロイメライ》はドイツ語で〈夢想にふけること〉。 シューマンとクララは八人の子供をもうけます。(クララは77歳で死去) 共に幼い頃から日記をつけていて、その日記を一つに融合し日々の出来事を報告し合っていたという。 その辺のいきさつも考慮され、映画の内容にリンクさせているのかも。 『記憶』というものは。 覚えておきたい、忘れられない内容だけを本人の解釈で、ファイルに収め比較的心の身近に置いてある。 しかし大きいショックの感情処理の出来ない記憶には。 自己崩壊を避ける為に、安全装置が働き、直視せず封印。 密閉箱に閉じ込め心の倉庫の隅に。 『よくあの事前後の記憶がない』という例が、これに当たる。 反対にさほど自分には重要には思えないと判断した記憶は。 現在までの時間の流れの中で。 日常の“壁”を隔てた奥の方の〔脳〕の “記憶の部屋”へ、“追いやっている”ことが多いのでは。 だからこのような場合、時々自分の記憶違いを他人とのやり取りで、再確認することになる。 だからこの映画の場合。 母親の記憶、〔半分の花火〕や〔湖での釣り〕は正しくて。 息子の記憶はどこかで忘れられていたり、自己解釈の誤りが生じていた訳だ。 この映画で重要なのは息子が小学生の頃に約一年間、母親が自分を見捨てて居なくなってしまう過去があった事。 彼女のピアノ教室に教わりに来ていた、妻子持ちの大学教授と母が不倫関係に。 彼が神戸に単身赴任になるのをきっかけに。 彼女も息子との生活を“ほったらかし”にして。その神戸のアパートに“改めて”住み着くことに。 その間息子は訳の分からない恐怖に対面し、さらに食べ物が尽き、祖母にSOSを発信する。 ところが母親らは、1995年1月17日の関西大地震に遭遇。必死の思いで被災直後の市内をさ迷い。彼女は息子の名前を絶叫する!?。生死の境で、やっと甦ってきたのか。不倫の妄執の中では息子の存在は忘れられていたのか。 その時外泊中の彼の安否やその後については、彼女の妄想の中でしか語られない。 あの地震で彼は、彼と母とはその後どうなったのか?。 原作ではこの後、母親は息子との生活に戻り、謝罪するでもなく再開したとある。 ここの所の認知症の母親が。 『何処に行ってたの?。』 『お前は私に探してもらいたくて迷子になっているんじゃないの?。』 と自分が徘徊しているにもかかわらず発する所がある。 きっとこれは母親がまた居なくなるのではないかと。 戻ってきた母親の姿が見えなくなると。 探しに出て迷子にでもなった日々を想像させる会話である。 また同時に。 認知症になった母親が、ここでは立場が逆になって。 『私はお前(息子)に探してもらいたくって迷子(徘徊)しているんだ』とすら深読みできる。 だから後年この事(母親の思いより女の“さが“を優先した)は息子にとっても忘れ難い記憶で、ずっと母親とのマジワレナイ確執に。 母親にとってもむろん『ごめんね。』と謝り続けることなのだが。 ただ彼女は『あの事は後悔してない』と言っているし。 そもそも息子が生まれた時から父親は不在という事情に、映画事態、もしくは母子自体、全く触れてないので。 不倫の母の妄執の情熱の測り様がない。 瀬戸内寂聴さんは、晩年おおやけの説法をいわば。 妻子を捨てて愛人のもとへ走った過去の“罪滅ぼし”のような。 庶民の為の“生きる説法”をした。 その上でも。 『子供にすまないことをした』という思いを語っている。 また息子の幼い頃との記憶は映画の中でも、再三現在の出来事と平行して描かれるが。 その後の十代後半から二十代に掛けて、現在に至るまでの人として重要な精神成長過程の息子の母親との描写がないので。 【認知症】の母親との関わり合いで。 《記憶》について考える上でも、今一つ 観客に対し説得力に欠けるかなと思う。 季節柄。 劇中の母親と息子の関係にとって、特に母には深い記憶になった。 *半分の花火🎇* 映画では長野県の諏訪湖の花火が検索して。浮かび上がり、行ってみるが。どうも母親にとってその花火でなさそう。 あと余談であるが。 水中花火で有名な新潟県の柏崎の花火も綺麗で。 同じく水面から半分上の花火を楽しめる。 ただこれがマンションの屋上から見える “半分の花火”とは私も思わなかった。 今テレビでは全国の有名所の花火が放送され。 コロナ禍が明け、数年ぶりに各地の多くの人々を元気づけている。 タイトルの{百花}は。 花のように儚く美しく、けれども最後に 残る{百の記憶}を託す。 母親の部屋に飾られている一輪挿しの花💠がその象徴。