レビュー
dreamer

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3 years ago

4.0


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わらの犬

映画 ・ 1971

平均 3.5

この映画「わらの犬」は、サム・ペキンパー監督、ダスティン・ホフマン主演で、イギリスの片田舎へやって来た気の弱い数学者が、妻を強姦され、命を狙われて、そこから反撃へ転じる凄まじい暴力描写が圧巻の傑作だ。 暴力の嵐が吹き荒れた1970年代のアメリカ映画の中でも、このサム・ペキンパー監督の「わらの犬」は、その暴力表現の凄まじさ、衝撃の強さにおいて最大級の問題作だ。 ダスティン・ホフマン演じる気の弱い数学者が、暴力のはびこるアメリカ社会に愛想をつかして、スーザン・ジョージ演じる妻を連れて、イギリスの片田舎へやって来る。 しかし、その静かな村にも男たちの行き場のない性的エネルギーが暗く淀んでいて、その負のエネルギーは都会からやって来た人妻の、挑発的な肢体によって引火されるのです。 そして、妻は男たちに強姦され、夫は男たちに命を狙われることに--------。 「ワイルド・バンチ」によって、バイオレンス派の異名をとったサム・ペキンパー監督のこの作品は、「ワイルド・バンチ」のように、暴力が詩情へと昇華せず、暗く淀んだところへと追い詰められていく、極めて"後味の悪い"映画だ。 ここでは、暴力は人間の野卑な欲望の象徴であり、まるで弱肉強食の生存競争の陰画のようだ。 暴力が肉体の解放となって、人を新たな生に向かわせるというプラスに働かず、"陰惨な死"へと向かっていく。 それを裏付けるかのように、画面がいつも雨に濡れたように暗いのも、この映画の陰惨さを象徴しているのだ。 恐らく、この暴力の暗さは、この映画が作られた当時、アメリカ社会がヴェトナム戦争という"暴力の泥沼"に落ち込んでいたことと無縁ではないと思う。 人間の醜悪さ、野卑さを、これでもかこれでもかと見せつけられ、私のようなペキンパー・ファンとしても、ちょっと落ち込んでしまいそうになる。 ただ、それを救っているのは、終始アイビー・ルックで子供っぽい清潔感を出している、ダスティン・ホフマンの好演だろうと思う。 彼の子供っぽさのために、後半の暴力シーンは見ようによっては、大人の邪悪な世界に落ち込んだ"ピーター・パン"が必死になって闘っている、けなげな脱出の姿に見えてくるのだ。 実際、彼の清潔感に比べれば、妻のスーザン・ジョージは遥かにワイセツで世俗的だ。 この暴力というものは衝動であり、人間に備わる"普遍的な本能"だと言えるのかも知れない。 その衝動は彼の中にも内在していて、いつ何かを引き金にして暴発するかもしれない危険性を孕んでいるのだと思う。 このダスティン・ホフマンの"内なる暴力"の目覚めの瞬間の描写が衝撃的なのだが、この"暴力に陶酔"でもしているかのような彼の描写について、ペキンパー監督は、「全くの間違いだ。君は本当にこの映画を観たのかね? 殺戮の途中で、彼は吐きそうになる。彼は自分の中に抑圧された巨大な暴力の衝動を抱えていたんだ。それは、いったん出口を見つけると、抑えることが出来ない。彼は女房を試し、自分を試し、そして自分の中の暴力を吐き出さねばならないような状況に、みすみす自分を追い込んだんだ」と語っているのが、非常に興味深いと思う。 ただ、暴力シーンでばかり有名になってしまったペキンパーだが、彼にはもう一つ顕著な特色があると思う。 それは、徹底した"女嫌い"であることだ。 ペキンパーの作品で女が共感を持って描かれたのは、「砂漠の流れ者」のステラ・スティーブンスくらいで、後は「ゲッタウェイ」のアリ・マックグロー、「ワイルド・バンチ」のメキシコ女、そして、この映画のスーザン・ジョージと、男を裏切る"いやな女"ばかりである。 そのため、ペキンパー監督は当時、"女性差別主義者"と批判されていましたが、私には彼の"女嫌い"は、子供が大人の女を嫌う、いい意味の"子供っぽさ"ゆえではないかと思えてならないのです。