
てる

美しき諍い女
平均 3.2
面白い作品だった。 映像がキレイなのだ。絵画の映画っていいよね。実に見応えのある作品だった。 約4時間の超大作だ。家で観ていたので、何回かに分けて観賞した。とはいえ飽きて止めたわけではない。 映像に引き込まれていった。時間が許すのであれば、途切れずに観たかった。 静かな映画だった。物語に凹凸があるわけでもなく、淡々と進んでしまう。映画館で観ていたなら寝ていたかも。疲れているときに観賞するのはおすすめしない作品だ。 ただ、映像に引き込まれると目が離せない。 きっと絵画が好きな人は皆そうなる。そうでない人でも引き込まれる魅力がある。 絵が出来ていく過程ってこんなんなんだぁと関心するのではないだろうか。 裸婦をモデルに絵を描くとはこういうことなんだろうなぁと思うのではないだろうか。 もちろん人によって描き方は違うのだろうが、その過程を観ていくのはとても楽しい。 なんて雑な入り方だ。なんてざっくりなんだ。なんて大胆なんだろう。そんなことを思いながら、筆が進んでいく。 ASMRと言うのだろうか。キャンパスに鉛筆を走らせる音、大きな筆でざっと塗っていく音。とても気持ち良い。 迷いなく、いやいや迷いはあるのだろうが、キャンパスに筆を走らせていくのが、とても楽しそうなのだ。 絵画っていいなぁと思わされる。 見ているものを見ているままに表現するのではなく、自分がモデルから受けるインスピレーションをキャンパスに描いていく。ざっとしたイメージから、手を進めていくうちに徐々に形を成していく。それとも頭の中にすでに設計図が出来ていて、それを描くのに夢中になっていくのだろうか。でも、筆を進めていくうちにその設計図もどんどん形を変えていく。設計図通りに進んで行くのは気持ちがいいだろう。早く次の工程に移りたい。早く完成した絵を見たい。そんな欲求に駆られないのだろうか。 普段私が文章を書いているときにそうなることがある。そこに共感し得るところがある。 とはいえたかが映画の感想と画家と比べるのは失礼に値するかもだが。 この作品は私のレビューのようなそんな単純なものではなさそうだ。迷いながら、あぁでもないこうでもないと頭を悩ませながら描いている。 しかも、奥さんとの因縁のある作品なわけで、心穏やかで描けるはずもない。 まぁそもそも『美しき諍い女』という題名の作品が安産であるはずがない。諍いがなくて描けるはずもない。しかも、モデルを変えての再挑戦なわけだ。そりゃ大変だろう。 フレンホーフェルとマリアンヌの関係性がなんとも悩ましい。 マリアンヌという女性が強すぎる。 彼氏に勝手にモデルとして出されたことに腹を立て、自棄になってヌードになっていた。だが、普段小説家として活動しているからなのか、1人のアーティストとしてモデルを務めるようになる。 モデル業が彼女の琴線に触れたのか、感情を露わにしていく。心の奥底の触れてこなかった部分を刺激していく。 それはモデル業だけでそうなったわけではないだろう。彼氏や彼氏の妹、フレンホーフェルの妻のリザとの関係性がそうさせてる部分もある。だが、やはりモデル業が大きいのは間違いない。 『美しき諍い女』という作品のモデルをやることで、彼女もまた役作りをしていったのだろう。ポーズをとらされるだけでなく、自分からもその役に挑んだのだ。だからこそ彼女は自分も知らない激情があることを理解した。 フレンホーフェルはそれを上手く引き出せたのだろう。 フレンホーフェルはずっと悩んでいたように観える。 かつての作品に再挑戦してみたいとは思うものの、それが出来ずにいた。妻をモデルに起用していたが、描ききれずに断念していた。その因縁の絵を別の若い女で再挑戦しようとしている。リズの気持ちを考えると後ろめたいだろう。 だから、始めの方は気乗りがしていないように観えた。マリアンヌのポーズを次々と変えては別のキャンパスに描いていく。まるで完成形が見えておらず、手探りでやっていたようだ。だが、マリアンヌが感情移入してからは筆が進んでいるようであった。 彼はプロフェッショナルだと思う。 色を好む芸術家は山程いる。実際に彼もモデルと何度も情事を重ねているし、モデルのリズを妻にしている。 今回もそういったことがあってもおかしくはなかった。若いマリアンヌは理想的な体形をしているし、その彼女が裸でいるのだ。変な気を起こしてもしょうがない。 それはフレンホーフェルの一存にかかっていた。マリアンヌの打ち込み方だと、絵画のためだと言えば簡単に応じただろう。 しかし、そうしなかったのは彼が芸術家であったからだ。性欲ではなく、描きたいという想いが勝っていたのだ。 前半の方はそうなってしまうのではないかとヒヤヒヤしていたが、後半はそうなることはなさそうだ安心する。それどころか、マリアンヌの打ち込み用に不安になってくるのだ。 結局、フレンホーフェルが描き上げた本当の作品を観客は見れなかった。それがどういった作品なのかは想像するしかないのだ。なぜそれを封印することにしたのかも説明はない。あの絵を見たはずの2人も封印された絵に対して、言及することはなかった。 それすらも観客に委ねてしまうのはやりすぎだ。しっかりセリフにしてほしい。監督はちゃんと伝えたい想いがあって、映像にしているのだから、自分の言葉や表現方法でしっかり観客に伝える努力をするべきだ。それは映像に携わる人の仕事なのではないかと思う。 だけど、伝えないという表現方法もあるのだ。それは観客がどう捉えてもいいというメッセージなのだ。納得は出来ないけど。 私は描き上げられた『美しき諍い女』は色恋の絵になっていたのではないかと思った。これはフレンホーフェルとマリアンヌの間に生まれた不倫の証である。だからこそ誰の目にも触れないように埋めたのだと思った。 でも、他の人の感想を読むとどうやら違うようだ。マリアンヌの恐ろしい内面を悪魔的に描いてしまったが故に、彼女のことを想って埋めたらしい。 まぁ、他にも感想は様々だ。完璧な作品に仕上がり、自己完結してしまったからこそ、他の人の評価を必要としない。だから埋めたのだとか色々意見が分かれているようだ。 どうも悪魔的な内面を描いたからこそ埋めた、という感想がこの作品にはしっくりくる。埋める際にちらりと見えた絵が他のとは違っていた。他の絵は青い印象だったが、赤を基調としたタッチであった。冷たい印象ではなく、熱い攻撃的な印象なのではないか。 リズは想像をしていたような出来上がりではなく、予想を遥かに上回る恐ろしい作品だと思ったのだろう。 マリアンヌは自分がそのような一面があることにぞっとしたのではないだろうか。自分はこのような人間ではないという否定がありつつも、これで間違いないという肯定の気持ちがあり、直視し続けられなかったのではないだろうか。 『美しき諍い女』 それは内面に、嫉妬や自尊心、パートナーに対する怒り、リズに対する怒り、フレンホーフェルに対する怒り、自分の過去、自分に対する怒り、様々なことに起因する激情を秘めた女をキャンパスに写し込んだ作品なのではないだろうか。 それは誰しもが目を背けてしまいたくなるような、恐怖を抱かせる凄まじい作品だったのかもしれない。 フレンホーフェルとマリアンヌが深い深いところで共鳴し、結び付き、生まれたその作品は不倫よりもなおも社会的に恐ろしいものだった。これを世に出してはいけない。これを世に出したならば、自分のみならず、マリアンヌやリズ、周りの者も不幸にすると判断したのかもしれない。 本当に静かな作品だった。アトリエの中は2人の静かな会話と、筆の音しかない。だが、その空間はとても静寂であるのは確かなのだけど、物凄い熱を帯びている。 それは観客が読み取らなければならない。 この映画の描き方は、『美しき諍い女』というこの作品のタイトルとはかけ離れた静かな作りなのだ。しかし、その外観に惑わされてはならない。内面は激しい。タイトル通りの諍いを招く恐ろしい女が引っかき回す作品なのだ。