レビュー
怪談を模した「神話」であり「お伽話」 傑作ホラー『ババドック』で鮮烈なデビューを飾ったジェニファーケント監督によるリベンジスリラー。1825年植民地時代のオーストラリアを舞台に、大切なものを全て奪われたアイルランド人の主人公クレアがアボリジニのビリーと共に復讐の旅へと出発する。 1700年代終わり頃から、イギリスの流刑地として設定されたオーストラリアには、イギリスから囚人たちがたくさん入植したらしい。また、同時期のイギリスではイングランドの植民地とされたアイルランドが反乱を起こしつつも鎮圧され完全にイギリスに併合されてしまい、イングランド側から差別の対象とされていたみたい。 罪人として収監されていたアイルランド人のクレアの背景事情もその辺りに起因してるのでしょう。父親を知らず母親を過労で亡くし、生きるためにやむを得ず行った盗みで投獄。更にはイギリス将校にはレイプされ、目の前で夫と子供を同時に奪われるという生き地獄のような迫害に対するクレアの復讐心は、当然のことながら加害者であるイギリス将校へと向けられる。 そのクレアと同行するのはアボリジニのビリー。彼は白人により家族を全員殺され、家を追い出され、白人のように生活することを強要されてきた。だから彼にとって恨みの対象は白人。当然クレアも白人なわけで、ビリーにとっての恨みの対象にカテゴライズされてしまう。一方でクレアも黒人であるビリーに対して偏見を抱いている。 以下、未見の方はスルー推奨です。 迫害された被害者として人生を歩んで来た自分が、別の属性の者からは加害者として認識されてしまうという違和感。そこから導き出されるのは非常に複雑な多重構造。イングランド人とアイルランド人、白人と黒人、男性と女性。虐げられた者は虐げた者へと直線的な怒りを向けるけれど、その周囲にはもっと複雑な関係性が渦巻いている。更には複数の属性に跨って存在する人々もいるわけで、ひとつの属性によりカテゴライズされた人々・集団に対する思考が同質化してしまうことの危険性までも浮かび上がる。だからクレアとビリーの旅は、加害者に対するリベンジの旅以上にお互いの所属する属性に基づく偏見を取り払う旅としての性質が強くなっていく。 終盤では並んで歩く二人の関係性の変化は大きな見どころとなるのだけど、同じく虐げられた者同士とはいえ、根差した精神性が大きく異なるゆえに「違い」がズレとして見え隠れする。例えば小動物の死体。ビリーとの間で理解が深まり始めた段階(=偏見からの解放)で登場するのだけど、ビリーは喜んで食料にする一方クレアはそれを見て泣く。二人の「虐げられた歴史」の違いを感じさせる演出で、生活の糧にするという意味合いが大きいとはいえ、見ようによっては所属する属性外(下層)の存在への対応の現れのようにも思えてくるし、もしそうであるならば受けてきた差別・迫害の凶悪さの度合いの違いの表現としても捉えられる。 そして最近も別の感想で書いたばっかりだけど、本作も露骨な怪談要素を取り入れている。ただ本作が面白いのは、物理的(というより観念的)な「死」を挟んでからは怪談の定石通りなリベンジ一辺倒な展開ではなく、「死」からの「復活」を成し遂げるところ。「復活」という地獄からの解放へと心が揺らぐ描写の積み重ねの後に訪れる彼女の決断の重みと止められなかった虚しさ・無力感(そして禁忌としての少しの高揚感)が本作のキモだろうと思う。 特にクロウタドリによる誘導というお伽話のようなシーン。ここは最も露骨な迷い・揺らぎの演出で、そのまま分岐点としての「分かれ道」が示される。通りかかった車に対する彼女の表情。そして決定的暴力への迷い。最終的に彼女の選択する「歌」という解決法が、本作の根幹テーマでありタイトルへと繋がるのだと思う。彼女は怪談という地獄から解放され、新たな彼女として歩を進める=復活の決断をしたのだと私は感じた。 ただし、それは大きなしこりを残したまま。 本作はわかりやすいスカッとするラストを用意しているわけではなく、止められなかった後悔と無力感をも強烈に滲ませた複雑な余韻を残していく。虐げられた側が抱える重みはそれぞれに全く違うわけで、少しの温かさを受け取ったところで帳消しにできるほど浅いものでは決してない。そこに対しても集団に対する思考の同一化が逆側のアプローチとして効いてくるという皮肉。虐げた側が手のひら返して歩み寄ってきたとしても簡単に「過去」を払拭することなんてできないわけで、最近の世間の流れに一石を投じるような監督の意図も読み取れる。 ただ、クライマックスのアレは属するカテゴリ全体に対する漠然とした恨みによるもの以上に、「個」としての「個」に対する意味合いの方が強いように思えるのが非常に印象的。そしてそれでも決して消えない過去が羽ばたきとして現れ、一種の成功体験的な高揚感として、また同時に真逆な感情も伴いつつ強くなる。本作が「純粋悪」の存在を肯定しているのかどうかは不明だけど、もしそういった存在が何らかの影響で生み出されてしまった時に取れる方法とは…。本作が反暴力を根幹に配置してるのは間違いないのだけど、人である以上、恨みや怒りを止めるのが如何に難しいことなのか。過去を払拭するのが如何に困難なことなのか。加害者にしても被害者にしても、行われる暴力が生む虚しさを本作は痛烈に訴えかける。 本作の物語は「答え」まで行き着くような単純なものではなく、「答え」に至る「変化」の第一歩と「答え」に至ることの難しさ(あるいは不可能性)を描いたに過ぎない。もうすぐ夏が来て草が育つ…それこそが真の日の出であり、画面外の観客に向けられたジェニファーケント監督の(メッセージではなく)純粋な「願い」なのだろうなと感じた。
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