太陽がいっぱい
Plein Soleil
1960 · ドラマ/犯罪/サスペンス · フランス, イタリア
118分



トム・リプレイ(アラン・ドロン)は、フィリップ(モーリス・ロネ)と酔っぱらってナポリに遊びにきた。近くの漁村モンジベロからだ。--トムは貧乏なアメリカ青年だ。中学時代の友人・金持のドラ息子フィリップを、父親から頼まれて連れ戻しにきたのだ。五千ドルの約束で。フィリップにはパリ生れのマルジェ(マリー・ラフォレ)という美しい婚約者がいた。--ナポリから帰った時、アメリカから契約をやめる手紙が来ていた。フィリップが約束の手紙を出さなかったからだ。トムが邪魔になっていた。友人のパーティーに向うヨットの上で、トムはますます彼からさげすまれた。裸でボートに放り出され、全身が火傷のように日焼けした。--彼は決意し、まず小細工をして、マルジュとフィリップに大喧嘩をさせた。彼女が船から下りたあと、フィリップに向い、刺し殺した。
🌙 抜け殻になっても、感情は消えない
「ぬけがら」都度課金開始✨
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キャスト/スタッフ
レビュー
100+挿入曲情報

Via veneto

Via veneto

Le yacht / Mongibello

Face au miroir

Tarentelle meurtrière

Arrivée à taormine
kasa1024
4.5
アランドロンを一気にスターえとのしあげた作品。 ミステリーサスペンスの傑作であり、彼の演技が男くさくて良い。男の色気とはこういう事だと感じた。 もう60年ぐらいの映画だが、今みても古くさくないと思うし素晴らしい映画だと思う!
アリちゃんパパ
3.5
アラン・ドロンが金持ちのボンボンを殺してすり替わろうとするサスペンス映画の名作です。 美しい映像と美しい音楽、そして美しいアラン・ドロン!見事な美のアンサンブルです。
LIBRO
3.5
展開は読めるけど飽きはないし、見ていられる。この時代の警察捜査なら、頑張れば警察をけむに巻けそうな感じが、サスペンスに適度な緊張感を与えてると思う
dreamer
5.0
"映画史に長く残る青春映画、サスペンス映画の金字塔ともいえる名作「太陽がいっぱい」" この映画「太陽がいっぱい」は、原作がパトリシア・ハイスミスで、彼女の長編第一作がアルフレッド・ヒッチコックによって映画化された「見知らぬ乗客」で、1956年に「太陽がいっぱい」を発表しました。 このトム・リプリーを主人公とする小説は、"太陽がいっぱい"の後、"贋作"、"アメリカの友人"、"リプリーをまねた少年"、"死者と踊るリプリー"と計5部作とシリーズ化されました。 第3作目の"アメリカの友人"は、1977年に鬼才ヴィム・ヴェンダース監督によって、デニス・ホッパー主演にて映画化されています。 パトリシア・ハイスミスといえば、最近では映画「キャロル」の原作者としても有名な作家ですね。 アラン・ドロン演じるトム・リプリーという野望に燃える青年が、南フランスを舞台にして行なった無計画な殺人を描いた、倒叙形式のミステリーで、この小説を「禁じられた遊び」、「居酒屋」のフランスの名匠、ルネ・クレマン監督が映画化した映画史に長く残る青春映画、サスペンス映画の金字塔ともいうべき名作です。 パトリシア・ハイスミスの小説は、文章が巧緻で、サスペンスに満ち溢れていて、ストーリー性にも富んでいますが、少し才走り過ぎている上に、推理自体の骨格がどうも弱過ぎると思っています。 この彼女の原作を下敷きにして、"貧しく、育ちも悪く、劣等感にさいなまれている野心的な青年"の完全犯罪と、その破綻といった形で"青春映画の傑作"を撮ったのがルネ・クレマンで、原作のラストでは主人公のトム・リプリーはまんまと逃げて、続編の小説では裕福なフランス人と結婚したりして悠々自適の生活を謳歌しますが、この映画では、もう映画ファンなら、すでにご承知のように、ラストでの衝撃的で、鮮やかなドンデン返しとなり、原作と全く違ったラストにしていて、それが結果的にこの映画を成功させ、映画史に長く残る永遠の青春映画であり、サスペンス映画たらしめていると思います。 ストーリー自体は極めてシンプルです。 金持ちのアメリカ人青年がいる。 フィリップ(モーリス・ロネ)といい、彼は大金持ちの息子で、ローマを中心に南ヨーロッパで遊び呆けている。 彼にはマルジュ(マリー・ラフォレ)という恋人がいる。 このフィリップを、アメリカに連れ戻しに来た青年がトム・リプリー。 トムはフィリップのかつての友人で、彼をアメリカに連れ戻す事を彼の父親に依頼されて、ローマにやって来ます。 成功報酬は5万ドルという条件で------。 だが、フィリップは、トムをまるで召使いのように扱い、トムの目の前で、これみよがしにマルジュといちゃついたりします。 その内に、報償契約を打ち切るという通告がアメリカから届きます。 トムの胸に激しい怒りと嫉妬と屈辱感が渦巻き、それは、やがて殺意へと変質していきます。 フィリップを殺して、自分がフィリップになり澄まそうとする底意を秘めた殺意です。 これらのトム・リプリーという複雑で屈折した若者像を、アラン・ドロンは、"妖しく悪魔的な魅力を発散させ、フィリップに媚びるような上目遣いの仕草や、育ちの悪さを漂わせた、下卑た煙草の咥えかた、マルジュに対する自分の魅力を背伸びして、最大限に示そうとする時の流し目"など、計算高く、野心的な若者を鮮烈に演じ切っていて、ここに世紀の大スター、アラン・ドロンが誕生したのだと思います。 この映画の大成功の大半は、主人公のトムを演じたアラン・ドロンの功績だと思いますが、彼は幼い時に父親を失くし、孤独な少年時代を送った事は良く知られていて、母親の再婚相手にもなじめず、中等教育を終えると17歳で志願して軍隊に入隊し、インドシナ戦線に従軍した後、映画俳優になったという経歴の持ち主です。 典型的な二枚目俳優でありながら、アラン・ドロンには、何故かフランスの暗黒街との関係が常に取り沙汰され、政財界の暗部に絡むマルコヴィッチ事件で、殺人容疑を受けた事もありました。 研ぎ澄まされた、鋭利な刃物を思わせる彼の美貌の裏側には、実生活の上での犯罪組織との繋がりも指摘されている俳優ですが、そういった暗くて謎めいた部分が、アラン・ドロンという20世紀を代表する世紀の二枚目俳優の美貌に、独特の陰影と翳りを加え、この「太陽がいっぱい」での彼の演技に、妙なリアリティを与えているような気がします。 映画の冒頭に近いシーンに、映画史に残る名シーンとして名高い、この殺人計画の重要な伏線ともなる見事な描写があります。 「フィリップの部屋へトムがだまって、ギターを持って入って来る。 数個のトランクが開け放しのまま放り出され、贅沢な衣類が散乱している。 ギターを放り出し、トランクの前にトムは座り込み、"素敵だ"と白い靴下を見つけて履いてみる。 床に寝転んで白い靴下を履いた足を真っすぐに上げてみる。 起き上がって、椅子に投げ出してあった上着を着て、ネクタイを締め、三面鏡の前に膝をついてにじり寄り、髪の毛をフィリップのように横に分け、額にかける。 フイリップの声を真似て、鏡の中の自分に向かって、僕のマルジュ、僕のアミ、僕の恋人と陶酔し切った表情になるトム----彼女は僕が愛している事を知っている。 鏡にキスして、マルジュへの恋は僕を盲目にする。そのように恍惚の表情をトムが浮かべている時に突然の鞭の音-------。 トムははっとして立ち上がる。手に鞭を持ったフィリップが入って来て、険しい表情でトムを睨む。 するとフィリップは命令するように、その服を脱げ!とトムに言うと、トムは額の髪を掻き揚げ、おずおずと、ふざけていたんだ」という名シーンです。 ここに描かれたフィリップとトムの関係が、この映画の全てを物語っています。 金持ちの残酷さの象徴としての鞭。 金持ちになりたいという、屈折した貧しい若者の変身願望と鏡に向かってキスをするナルシシズム-------。 ここでは、二人の間に友情というものが成り立つわけなどない事を簡潔に、また象徴的に描いていると思います。 尚、生涯、映画を愛してやまなかった映画の伝道師とも言うべき、映画評論家の淀川長治さんは、この有名なシーンというのは、監督のルネ・クレマンが、トムのフィリップへの複雑で屈折した"同性愛的な感情"を暗示するシーンとして演出していると、映画的文法から深読みして解釈されていましたが、それも、ある意味一つの見識だろうと思います。 トムは、やがてフィリップをヨット上で殺し、死体をロープで縛り、重しを付けて海へ捨てます。そして、トムはフィリップになり澄ますために、フィリップのサインの筆跡を真似ると共に、身分証明書の写真も貼り替えます。 その上、フィリップの友人が訪ねて来ると、この男を殺し、フィリップの仕業に見せかけます。 それだけにとどまらず、フィリップは、この友人を殺した事を悩んで自殺したかのように見せかけ、フィリップの遺書を偽造します。 トムの完全犯罪は、見事に成功したかのようにみえたのだが--------。 かつて、探偵作家の江戸川乱歩は、彼の"変身願望"というエッセイの中で、「人間は、あるがままの自分に満足せず、人間がいかに他人に化けるかという事に心を砕き、それが犯罪の動機に結びつきやすいか」とトリックの一つになると語っていましたが、「太陽がいっぱい」は、そのトリックを駆使して、大胆にストーリーテリングを進め、いわゆる"倒叙形式のミステリー"の傑作を作り上げたのだと思います。 そして、作品の主な舞台を海にした事も、この映画の成功の大きな要因になっているとも思います。 "青春の揺れ動く心をそのまま写し取ったかのような波"を、カメラは執拗にとらえていきます。 "希望と絶望、不安と期待、友情と憎悪"-------。 矛盾し、相反する二つのものが、激しくせめぎ合っている、野心的な若者の心の内側を正確に切り取ったかのように、カメラは荒々しく波立つ海を、克明に映し出します。 この映画の撮影監督は、今や伝説的な名カメラマンのアンリ・ドカエ。 「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー監督)のカメラマンですが、ヌーベル・ヴァーグの代表的なカメラマンを起用したあたりに、ルネ・クレマン監督の野心があったのだと思います。 ヌーベル・ヴァーグより一世代前に、すでに巨匠の地位にあったルネ・クレマンは、今更、若い監督たちに対抗意識を持つ必要もなかったとは思いますが、ヌーベル・ヴァーグに対する、彼なりの一種の挑戦状のつもりでこの映画を撮ったに違いありません。 そして、忘れてはならないのは、「ゴッドファーザー」(フランシス・F・コッポラ監督)でも有名な世界的な音楽家のニーノ・ロータによる、揺れ動く青春の"希望と絶望"、"不安と期待"、"友情と憎悪"を、哀愁を帯びた旋律で奏でるテーマ曲。 永遠に心に残る名曲として、このメロディを聴くたびに、永遠の青春像であるトム・リプリーの姿がアラン・ドロンの姿と二重写しになって、鮮やかに私の脳裏に甦って来ます。 そして、この映画の白眉ともいえる、ラストの衝撃的で鮮烈なドンデン返しです。 トムが偽造したフィリップの遺書では、全財産は恋人だったマルジュに贈ると書かれています。 マルジュに接近したトムは、密かに愛の告白をします。 マルジュは、やがてトムの告白を受け入れます。 貧しい若者が、密かに夢みていた財産と美しい女は手に入った。 若者の頭上には、今、"太陽がいっぱい"輝いています。 正しく、トムにとって人生最高の時を迎えようとしていました。 フィリップのヨットは売却される事になり、船体検査のため、陸に引き揚げられる事になります。みんなが見守る中で、スクリューに絡んだ長いロープが、ずるずると海面上に姿を現し、その先にはフィリップの死体が絡みついていた--------。 これからも、ずっと永遠に語り継がれるであろう、衝撃的なラストシーン------、見事の一語に尽きます。
sonuko
5.0
祖母が映画好きでアラン・ドロンも好き、この作品も「大好き!」と言っていて 中学生の頃、まだBSで古い映画を今以上に放送していた時代に見ました。 やはり私も初見で、しかも最初のシーンでアラン・ドロンのかっこよさにやられました。 ちょうど8月にみたので、夏になるとみたくなる作品です。
manamizw
4.0
上昇志向に燃えまくるアラン・ドロンの、金銭的にだけではない心の貧しさや富に対する並外れた飢えのようながつがつした感じが端正なルックスと相まって少し間抜けに見えるところがとても良かった。ラストシーンたまらん!音楽はニーノ・ロータ。マルジュかわいい。それにしても地中海の海は眩しい。
ボンゴレ
3.0
金持ちのフィリップに近づいて殺人を犯し本人になりすますリプリー。リプリーの偽装工作も凄いが、フィリップも気がついていてなぜリプリーと距離を置かないのかが不思議。マージュも周りもまんまと騙されていたが、最後の船でギョッとした。アランドロンの格好良さと色気が際立つ映画リプリーのオリジナル版。
星ゆたか
4.5
2022.2 2025.2.16追記と2024.8.19のコメント下にあり… フランス・ヌーヴェル・ヴァーグ(『いとこ同志』『大人は判ってくれない』『勝手にしやがれ』)と言われた映画が、1960年に続々に公開された年に、彼らの前の世代の巨匠の一人であるルネ・クレマン監督が発表したサスペンス映画の傑作である。 撮影に、アンリ・ドカエ。音楽に、このころ、これまた絶好調の、ニーノ・ロータ。そして出演者に、この作品で国際スターに大ブレークした、アラン・ドロンを始め、演技賞評価の、モーリス・ロネ、またフレッシュな魅力の、マリ・ラフォレなど。 物語は、貧乏青年が金持ち息子の知人と親しくなり、嫉妬し殺してしまい、あげくのはてに、その友人になりすまし、一時の幸せを得るが、それもつかの間のことで、完全犯罪にはならず、という結末になるという内容である。 公開後しばらくたっての1975年頃、映画評論家の淀川長治さんが、この中の二人は、同性愛の関係にあるという解釈(もっとも淀川さん自身はもっと早くからそういう見方)をだし、名作映画の新たな見方を考えさせることになる。しかしさらに時を経て、1999年のアンソニー・ミンゲラ監督、マット・デイロン、シュード・ロー、出演の作品では、その内容の同性愛傾向は明らかで、淀川さんの解釈は、大変先見性のある見方だったといえよう。 特に淀川さんの指摘で印象的な所。 あの二人は、片方が貧乏で金持ちの息子の物が欲しくてしょうがない。一方金持ちの方は飽きてしまっている。憧れと可愛いさで、お互い無いものねだりで親密さを深める。二人でヨットで遊びに行って帰ってくる所。舟から降りる時、金持ち・貧乏という主従関係出なく、友人の乗りで、並んで仲良く降りてくる。それを見ていたおじいさんが、“あの二人可愛いね”というのだそうだ。 そして最後のドロン青年が、殺してしまった死体が、スクリューに絡まって上ってくる結末を迎える所。あの場面でも、不安の電話か?と一瞬彼は表情を曇らせた後、少し安心し、ワイングラスを持つ。その手に、死体の手が続くという編集で、“お前もすぐ俺の所に来るよ、”という暗示があるという。(あれは後追い心中なのだそうだ。) またさらに、殺し方についての指摘。金持ちの友人の方は、銅像のようなもので殺すが、ロネの金持ちの方は、ナイフで殺す。これも刃物で殺すのは、ラブシーンだという。“殺せるか、殺してごらん”という‥‥‥そういう見方もありか? ともかく映画は、かつて色々な見方をされ、これからも新たな発見があるかもしれない。名画ならではの、(時間をえての)再度鑑賞の楽しみです。 2025.2.15BSTV10[館ひろしシネマラウンジ]再鑑賞💫 映画評論家伊藤さとりさんと一緒に映画の見所や解説を。 本編ノーカット放送終了後にゆったり語りあってくれるお楽しみ付きが何より嬉しい。 これによって現在、個人で自由にいつでも名作映画を見られる状況に。 プラス解説の“今”の付加価値が付き。 それが再び今が過去になった時に、更にこのお二人の解説が歴史に加わる意義が生じる。 さてもう何回も、見ている古典的名作(フランス)であるが。 今回吹き替えで見たので。 昔、淀川長治さん解説のTV日曜洋画劇場を見たような気分に。 しかも今回の放送はスターチャンネル(有料)が独自に2016年に完全版用に作られた吹き替え作品であるらしい。 大抵の地上波民放放送の仮に2時間枠だとするとCMが途中何回も入るので正味96分位にカットされてしまう。 だから本当は吹き替えでなくてアラン·ドロンの最高傑作と言われる本作は、字幕で見たかった。 まぁ個人的には字幕盤も所有しているからイイのだけれど。 あの特に本作でアラン·ドロンが殺してしまった金持ち息子のモーリス·ロネの声色も筆記字体ともに『マネしている』様子をやっぱり“感じたい”からだ。 ただノーカットの良さは今回。 イタリアの観光名所をロケしながら俳優の芝居が楽しめる良さがある。 「盗み録り」アラン·ドロンの最初の出世作だから、まだ観衆の映画撮影の協力もそれなりに得やすかったかも知れないが。 さすが戦後(45~55)のフレンチネオリアリズムの傑作。 [鉄路の闘い][海の牙][鉄格子の彼方][禁じられた遊び][居酒屋]等を作ってきたルネ·クレマン監督らしく。 ドキュメンタリー作風の中の。 細やかな人の動きや反応がしっかりあった上での。 物語展開が自然に成立している。 物語の導入部分のドロンのシャツやスラックスの貧弱な汚れ具合があって。 金持ち息子を装おう中盤以降が活きてくる。 その始めに鏡の前で、金持ち息子の靴·上着·ネクタイを身に付け声色を真似してウットリして。 金持ち息子に気色悪がれる描写もきちんとあるから。 しかも彼の虚言性(ありもしなかった昔話を懐かしそうに話すおかしな野郎)を日常の刺激に面白がっている。 その後の貧乏青年の金持ち息子の殺害~身代わりの展開の下地になりドラマに深みを与えている。 また今回館さんが指摘した見せ場の1つ。 終盤アラン·ドロンがモーリス·ロネの遺産をマリ·ラホォレに与えておいて。 『僕はアメリカに帰る、お別れに来た』と言って。 当然『帰らないで』と彼女が言うだろうと芝居をかけ。 その反応を待つ所のアラン·ドロンの目の芝居。 この映画のアンリ·ドカエとのカメラ視点(表情のアップに俳優の若さが映える)もあっぱれだ。 撮影と言えば。 あの海上の殺人シーンの荒れた波とヨットの揺れ具合の緊張感も。 例えばジョン·フォード監督の[駅馬車]での平原をインディアンと疾走する馬車の。 “動く映画”の躍動感と同じドラマツルギーがある。 そういった海上の“動”の芝居の絵と平行し。 背景の船の“静”の配置が、映画の深読みに視点を与えてる。 『何故あそこに船が?』と。 殺人展開の所では、あれは欧州の言い伝えで物語の将来を示唆すると。 また終盤の海上の停止してる船は淀川長治さんによると。 あれは死んだ金持ち息子の幽霊で。 『お前もすぐ俺の所へ来るよ』と言う暗示の為の配置だとなる。 この映画は公開当時。 フランスのヌーヴェルバーグ旋風(新しい映画人)。 作者の視線を含んだ人間の内省的映画作りに対して。 設定(金持ち息子に嫉妬した貧乏青年)を存分にいかした活劇を。 外から見る面白さで、半ばドキュメンタリータッチで描き進めた。 『どうだ私達の映画は君たちのヌーヴェルバーグとは違うだろう』と言っているかのごとく。 またあのニーノ·ロータの甘美な主旋律を編曲しながら繰り返す手法もあの時代の映画の魅力だ。
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