100年の谺(こだま) 大逆事件は生きている

100年の谺(こだま) 大逆事件は生きている
2012
90分
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事件の犠牲者たちが何を考え、何をしようとしていたかを明らかにするとともに、事件に対する日本の文学者たちの数少ない反響を、当時フランスで起きたドレフュス事件と対比しながら検証する。20世紀初頭、日露開戦へと世論が沸騰する中、幸徳秋水と堺利彦は平民社を設立、平民新聞を発行する。自由・平等・博愛と社会主義を掲げ、“非戦”の旗手として登場した平民新聞は、政府の弾圧によりまもなく廃刊となるが、次々と後継紙を生み、社会問題に関心を持つ人々の心を掴んでいく。その中には、新聞記者として公娼廃止や女性の地位向上を訴えた管野須賀子、和歌山で貧しい人々の医療に力を尽くした医師・大石誠之助、被差別部落の門徒への差別と向き合った僧侶・高木顕明、岡山で農事改良に取り組んだ森近運平などがいた。だが、軍事国家への道を突き進む明治政府は、自由な言論活動を厳しく取り締まり、思想統制を強化。これに対して信州明科の労働者・宮下太吉は、天皇へのテロで人々の目を覚まそうと短絡的に考え、自ら爆弾を作り実験するに至る。やがてそれは警察の知るところとなり、宮下と接点があった平民社の仲間たちが次々と検挙されたのだった……。その後の研究で、事件は大逆罪に名を借りた社会主義者、無政府主義者への弾圧であったとされ、1961年、唯一人の生存者・坂本清馬と森近遺族が東京高裁に再審請求するが、65年に棄却される。しかし、事件の真相が明らかになってくるにつれて、各地で犠牲者の名誉回復や顕彰をする活動が生まれ、現在に至っている。

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