映画は冒頭、中平卓馬が自身の日記を音読するシーンからはじまり、画面にはその日記が全面に映しだされる。日記を朗読する細く低くしわがれたその声は、ほとんど聞き取ることが不可能なほどだが、不確かな「今日」をひとつひとつ確かめる呪文のように、続いていく。そして、そのきりきりと尖っている文字は、切れ切れの「生」をかろうじて繋いでゆくかのようだ。しかし、そこに映っているのは、一見、おそろしいほど穏やかに毎日を繰り返す中平卓馬の「日常」だ。起きる。食事をする。日記を書く。写真を撮る…。今日が終わり、明日が始まり、また今日になる。そのエンドレスな日々を、ホンマタカシホンマタカシは飽くことなく、むしろ、日々驚き愛おしむように、そのカメラを向けてゆく。沖縄で、水を得た魚のように話し動く中平卓馬。森山大道が語る、あの頃の中平卓馬。自分の写真を丁寧に丁寧に説明してゆく中平卓馬。自転車を漕ぐ中平卓馬…。ゆらゆらと動き、切れ切れのか細い声で話し、柔らかに笑いかける。細くて小さいけれど、その全存在でまるで何かと闘いつづけているかのようである。