
しむこ

400번의 구타
평균 3.5
映画観賞後、邦題に対しての違和感が残った。 原題は「400回の打撃」。 これは慣用句で、「放埒な生活を送る、あらんかぎりのバカをする」等の意味があるらしい。 毎回思うが、邦題は究極いらない。原題のままでいい。 この映画も「400回の打撃」(アメリカではこのままらしい)ではわけがわからなすぎるので、「放埒」とか。せめて「不良少年」ぐらいにしてほしかった。 なぜか。 ドワネルの家庭環境はもちろん良好とはいえないが、それが不良行為を是とする理由とはならない。 では、なぜドワネルはまさしく「放埒」な行為を繰り返すのか。もちろんある意味での放任と、愛情の希薄さが理由に上げられるだろうが、率直に言えば「放埒」自体を楽しんでいるのである。パリの街を満喫しているのだ。 ドワネルが街を歩くシーン。どの大人より颯爽としているし、街に溶け込んでいるように私には見えた。 ドワネルと似たり寄ったりの少年だった自分のことを思い出すと、よく分かる。 少年はただ無限の自由が欲しかった。 そこで「大人は判ってくれない」という邦題。 これは「判って欲しい」という感情があるのでは、というミスリードに繋がっていると思う。 かわいそうな僕の気持ちを、と。 違う。 ドワネルは自由を求めただけだ。それも「放埒」な。 つまり、理解されようなんて思ってない。私もそうだった。 自分が望む「無限の自由」なんて、理解、容認されようがないことぐらい、少年は判っているのだ。ドワネルは常に堂々としていたではないか。判ってくれない、なんていじけてない。逆なのだ。 あえて私が邦題をつけるなら 「判ってたまるか」 である。 映画は海にたどり着き、放埒の終演、自由の限界を向かえ、不自由で、全てががんじからめである、陸の方を向き直るドワネルのアップで終わる。 ドワネルが見つめている先には何があるのか。 それは管理社会にからめとられ、指先ひとつ自由に動かせない我々ではないだろうか。 私には、ドワネルの目に私たち大人に対する哀れみと軽蔑、そして将来の自分に対する絶望の色が見えた。 -追記- まあ、ストレートに観れば、パリの糞悪ガキがやりすぎて、無責任な糞親に捨てられたという凄惨な話。 なのに、陰惨な感じがしないのは、ひとえにドワエルのあの役柄にピッタリの素晴らしいルックスと演技力。 彼の魅力が全てとも言える。