
星ゆたか

당신얼굴 앞에서
평균 3.5
2023.8.26 昨年6月にレビューした「逃げた女」(20)以来のホン・サンス監督(60年生まれ)作品。 キネマ旬報2022年外国映画(64人選者)10位。(176位までありこの作品には12人がテン入りの結果) 監督.脚本.撮影.音楽.編集全てホン・サンスさんとある驚き😲‼️。 映像作家として彼の目指す、探求し続けるテーマは。 『私たちの目の前に広がる世界は、代わり映えがしないように見えて、日々変化している。同じ場所で同じようなことをしているように見えて、微妙に違う人々の言動を。 層のように重ねることで見えてくる人間という生き物の本質を観客の前に差し出すこと。』だそうだ。 長い間アメリカで暮らしていた元女優のサンオクは突然、韓国の妹の家を訪ねる。 そのたった1日の出来事を通して触れる1人の中年女性の心の深淵。 約12分にわたる2人の会話の長回しショットが前半に数回。 後半でも彼女に映画の誘いの呼びかけをしてきた同じ年位の男性監督との会話。 やはり長回しの連続がある。 この作法は多分に。 今、目の前にある人間と空間と時間だけを“観ている”ことだけに集中している結果だから。 当然描かれるのも現在の登場人物の “容貌”と語られる言葉だけの “心情の雰囲気”という表現内容になる。 だからその人間の過去に関わってきた人間についても。 普通ある回想形式の映像のカットバックもない。 それで登場人物はどんな所で生きてきたかも分からないし、 映画は余計にセリフでも語らない。 とにかく“今”にどっぷり、 “観客も“浸らされる”のだ。 最初の姉妹についての描写。 姉は好きになった男と渡米したらしいが、その後あるいは現在、夫や親しい男性などいるのかどうか知らされない。 わずかにシカゴでリッカーショップをやっていたと語られる。 妹に貯金もあるのだろうから、こっちの建設中のマンションでも買って住めばいいと言われ。散歩しながら見に行こうと誘われる。 妹は抽選で住み始めているという現在のマンションに。 夫やパートナーがいるのかどうかも、 これまた全く触れられずに終始する。 ここでもソファのある一室でしか、 撮られない。しかもその一室すら “部分的”で、“無愛想”の印象すら受けた。 空間の全体像が見られない。 この監督の特徴だ。 「逃げた女」でも同様のシチエーシヨンで、同じような感想を持った。 そして会話している内にこの妹は姉に。 かつて過去に抱いていた不満の言葉をこぼし、さらに現在の会話を続けながらも。 『お互いの事を何も知らなかったと気づくのは。とても恥ずかしいことだと思わない!』という。 この現実は私たちの日常でもよくあることで。 身内より社会生活で毎日一緒にいる人間の方を、よく熟知してたりするもんだ。 大人になって離れて暮らしていては、身内でもどんな事を考え生きているか知らないのだ。 だから他人に見せている身内の実態に、驚かされる事がある。 この妹の1人息子に姉は親しまれていたらしく。 その後その甥っ子から100ドル入りの財布のプレゼントをもらいハグする場面がある。 日常に訪れたささやかな幸せ。 走りより、前に買っておいて、会ったら渡そうと思っていた贈り物を差し出し。 走り去ってゆく甥っ子ね姿を見つめるカメラの一連の視線がイイ!!。 ここで語られる彼女の独白。 『感謝します。この財布👛をくれた真心を受けとります。そんな真心を受けとる資格のある心を授けたまえ。』 その後今回の帰国のきっかけになった映画監督との。 〔小説〕という休業中のバーを借りて談笑する展開が後半だ。 近くの店の{エビチリと酢豚〕を監督の助手に買ってきてもらい。 酒🍶(コーリャン)を飲みながらの会話が進み、話が是非映画を一本撮りたいという話になって。 サンオクは妹にも話してなかった、自分の余命を語り、長期の将来の計画は無理だと告白することになる。 監督は驚き酒の酔いもあって、動揺し。彼女に反対に慰められながらも。その後なおも二人の酒の飲みあいが続く。 勢いで監督は『2日旅行し短編の映画を明日にでもどうか❔』と持ち掛ける。『明日?ホント?』と返事 この件については翌日、酔って実現不可能の約束をしてしまったと。 冷静になって詫びる、この妻子持ちの監督の留守電メッセージが入り。 彼女は二度再生し、聞き入り思わず笑いころげてしまう。余命5ヶ月と医師に告げられた中年女性に、突然降りかかってきたロマンスの響きの応えが、 “これか!”という反応。 少し“色っぽい”言葉も出ててたので。(なぁ~んだ…という気持ち?) この監督の作品には映画監督の登場人物が多いが、大抵はどこか自虐的でユーモラス。ご自身も含めて描くこの業界人というところか。 ただ酔った上でといえど。 あそこで監督に語られる彼女の言葉は映画のタイトルにも繋がり、中々感動的だ。 『私には信じている事があります。17歳の時“死のう”と思って行動した時の、目の前の美しい世界です。』 『過去も明日もなく、今この瞬間だけが天国なのです。全ては神の恵みです。感謝します。苦しみでなく安らぎを下さって。美味しく食べて、元気に過ごせます。』 そう思えるようになって死ぬのが怖くなくなったと。 劇中再三、彼女は自らをその“神”のような“第三者”に語るように、祈りを捧げるように。独白で語っていく。 そこにはふと日々に訪れる訳の分からない人生への、彼女の場合特に“死への不安”をフリハラソウとするかのように。 この映画では主な登場人物三人(姉妹と監督)の他に。 甥っ子夫婦。公園で姉妹の写真を撮ってもらった散歩中の母娘(姉の女優時代を覚えていた)。 姉が幼い頃住んでいた場所に今は、別の店をやっている娘。そこでは梅茶をよばれ、店内の二階では6歳の女の子を抱きしめる、彼女の昔の自分をいとおしむかのように。 そして監督の助手といったその他の登場人物については。 決まって正面からではなく、横顔であったり、全く顔の見えない後ろ姿で撮影される。 観客としては周り巡って、その人の顔を見たいと思うのが自然だけれど。 出会った人に興味関心が私は強いのか、特にそう思う。 それは最初に語った空間と同じ。 その場所の全体像の中での景色の位置を、ちょうど上空からの俯瞰撮影で知りたいというような思いは全て無視される。 観客は制作者の主観の狭義の視点に限られて。 語られる人間や空間や時間に焦点をあてられるのだ。 だからワンカット長回しのシーンの会話劇に。 他の余分な物、人間、世界、思考は排除され。 用意された真実の一点に導かれていく。けしてよそ見はさせないのだ。 そしてこの監督の映画の感触・味わいとしては。 やたらとタバコを吸い交わす場面が。食事や酒を飲食し会う描写と同じ位多い。 それは老若男女に限らず、時と空間と思いをそれぞれ重ねるかの如く。 今のこの映画と観客の出会いの心を、鑑賞中だけでも同化したいと願うかのようだ。