코멘트
dreamer

dreamer

3 years ago

3.0


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다우트

영화 ・ 2008

평균 3.2

この映画「ダウト あるカトリック学校で」を観終えて、まず思ったのは、このドラマを舞台劇で観たら、さぞ面白かっただろうなという事です。 元々この作品は、ブロードウェイの舞台でトニー賞を受賞した大ヒット舞台劇の映画化作品で、1964年のニューヨークのカソリック・スクールが舞台となっています。 苛烈な規律を強いる校長(メリル・ストリープ)の下に着任したのが、規律よりも生徒の自主性を重んじる神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)。 その神父が、アフリカ系の生徒に性的ないたずらを加えているのではないかと、校長が疑いを抱きます。 神父は、本当にやったのか? -----。 脚本は、その答えを巧みに避けていると思う。 更に、校長と神父の対立には、厳格と寛容、禁欲と享楽、伝統と革新、そして逸脱への不信と統合への過信など、様々な"二律背反的な対立"が潜んでおり、このドラマに深い奥行きを与えていると思う。 この事からも、このドラマは、実によく練られた、いい舞台劇だという事がよくわかります。 だが、映画としては、かなり疑問が残ります。 まず、舞台を広げすぎていると思う。 演劇と違って映画では、空間が制約されないけれど、舞台の拡大は緊張の拡散も生むわけで、間が抜けてしまうような気がします。 そして、カメラも動きすぎるので、かえって空間の意味を捉え損ねていると思う。 例えば、校長の部屋に入ってきた神父が、当たり前のように校長の椅子に座ってしまう。 学校の責任者は校長でも、教会の位階では神父の方が上位になるわけで、下座にされた校長の"ルサンチマン"を伝えるいい場面なのですが、この「校長の椅子」の意味が、ほとんど伝わってきません。 これが舞台なら、"特権的な場所"という意味を、もっと明確にできただろうと思います。 校長を演じるメリル・ストリープもかなり頑張っているとは思いますが、もっと距離をとって見た方が生きる演技だと思う。 クローズアップにされると、まるでホラー映画のようで、笑いを誘ってしまうのです。 そして、何よりも言葉に頼り過ぎていると思います。 映画という表現媒体では、締めのひと言の重みを出すのは難しいものです。 神父の悲劇だったはずのドラマが、最後のセリフによって校長の悲劇に逆転するはずなのに、それが決まらない。 映像が言葉に先行するという、映画と演劇の違いを改めて思い知らされました。