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星ゆたか

星ゆたか

1 year ago

4.0


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더 비스츠

영화 ・ 2022

평균 3.2

2024.11.17 2023年東京国際映画祭グランプリと監督賞受賞作品。 監督はスペイン出身のロドリゴ·ソロゴジエン(81年生)。 物語は実話で1997年オランダのマーティン·フェルフォンダ&マルゴ·プール夫妻が。 スペイン山岳地帯ガルシアの小さな村サントアージャで有機農業を始める為に移住して起こされた事件に基づいている。 そのニュースに『何故そんな事件に遇いながら同じ土地に住み続けるのか?』と監督が婦人のマルゴ·プールさんに取材し。 イザベル・ペーニャという女性と脚本を練った。 原題は『獣たち』([AS BESTAS])。 都会と田舎の男達の確執を。 開巻光景の『素手で馬を捉え放つ』野生のけものの性質に捉えている。 オランダ夫妻をフランス夫婦に置き換えたのは。 被害者への敬意と、昔からスペインとフランス人にあるライバル意識からであるそう。 アントワーヌとオルガ夫妻は移り住んで2年。 隣家の兄弟(母親と3人暮らし)と仲が悪く。 村の風力発電計画に義援金が出る話に夫妻が反対してから益々仲違いになっている。 嫌がらせ(①道でアントワーヌの車が故障、たまたま通りすれ違いの隣家の弟が自分の車に乗らせようと声掛けして何度も発車し面白がる)(②夜間夫妻の車の帰路に待ち伏せ、兄弟の車で妨害、夫妻に難癖をつけ怖がらせ)が続き、その中でも決定的になったのは。 夫妻のトマト栽培畑の資源水小屋に自動車のバッテリー2個を夜間投げ込み。水質に銅要素を混入し。全滅させた事だった。 それらの嫌がらせが続き、前半の“映画の彼らの人間関係の山場”の場面。 酒場でアントワーヌが隣家の兄弟ジャンとロレンソに酒を振る舞い本音を語り合う所だ。 まずアントワーヌ。 『あんたらは、私たちをこの土地から追い出したいのだろうが。トマト全滅で資金も減って、それもかなわない。 俺は若い頃は無茶苦茶だった。しかしここへ来て昔からの自然の風景に心が落ち着いた。そんな美しい村に風力発電は景観を損うから反対している。古民家の修復もその為だ。義援金が入ったら何か計画があるのか?』 すると隣家の兄。 『お前らはこの土地に来て2年だろ。俺は50年、弟は47年、母親は70年。ここで生きてるんだ。汚くて仕事も辛く嫁の来てもない、義援金を貰って何が悪い!貰ったらタクシーをよんで豪遊するんだ。』 ここでそれまで単に意地の悪い隣家兄弟の悪人描写(酒に酔っては嫌がらせの連続)から。 その彼らの気持ち、本音を聞き出す《シークエンスショット》の長回しを設けることで。 見ている観客も同じ空間にいるような感覚にさせ。 登場人物の人間性の底に潜む感情·想いに興味を持たせる効果が生まれるのだ。 その事によって、観客視点も自ずから拡がり、より人間について、社会について、多様性に富んだ解釈が出来るようになる。 この映画は前半男達の視点でこのような暴力的衝突な話が進められ。 それに対し、妻の反発的想いが今1つ背後にあって弱いと思っていたら。 後半の、その夫だけが“行方不明”になってからは。 映画の主軸が変わってゆく。 あえて夫が失踪した事に騒ぎたてる事の描写もなく。 農業を親切な近所の老知人の協力を得て日々続けながら。新たな収入源の羊も飼い始める。 また夫の帰らぬ現状に警察に度々行っては捜索願いを出してもみる。(中々近所トラブルとしか扱ってくれない) 自分が歩いて探した地点を手製の地図に書き、それを示しながら。冬の雪の降る寒い中も探し続ける。 そういった地道な忍耐·不動心で〈夫の不在〉という現実に向きあっていく姿を見せていく。 フランスからは娘(子持ち)が心配し、単身出向き一緒に働き度々帰国を勧める。 しかし母はこの土地にこだわり続ける。 ただここでも若い娘にとっては隣家の兄弟は怖い。 音楽の低い不協和音が効果的に使用され、何か悪い事がお起きやしないか不安がつのる。 だから一刻も早く『こんな所出て孫と一緒にフランスで過ごそう』と何度も誘う。 しかも父親は何回も怖い思いをさせられた兄弟に“殺されたんでしょう”とまで言って。 この父親は手持ちカメラで兄弟の嫌がらせを証拠実態として、絶えず撮っていて娘もそれを見てそう思ったのだろう。 観客は映画の中で事の真相を見せられているが。 映画の中の母も娘も隣家の母親も。 そして警察も事の真相は知らない状況なのだ。 (父親の手持ちカメラが後に現場付近から母によって見つかり、それが最後の事件解明の糸口になる。) この映画は外国人排斥を呼び起こす物語要因として。 ①〈田舎と都市の対立〉 ②〈緊張と暴力〉 ③〈理性と無知〉 ④〈幸せ度認知と経済格差〉 などの要素を描きながら。 男達の残した負の遺産(このような隣家争いから、それこそ解釈は戦争までも)を。 女達が“暴力を継承しない”形での信義で。 つまり人と人の《会話》によって。 ①〈回復力-レジリエンス〉 ②〈忍耐力-ストイシズム〉 を積み重ねながら描いた。 それを映画では後半、母親·娘そして隣家兄弟の母親の3人の女性の“話し合い”で。 物事の方向性を見いだし静かに“相続”してゆく。 オルガは隣家の母親に。 『息子達は刑務所へ行くの、貴方も私もこれからは一人で生きていくのよ』 ここではその後、あの警察に向かう車の中からオルガが外の隣家の母親と見合うショットが活きる。 女性脚本家共同で。ロドリゴ監督は新聞記事の最初の疑問を。 『愛する者の喪失と失踪の中で、ある場所に留まって抵抗する女性の姿』で描いたのだ。 ただ仮に、もしオルガが村を去っていったら。 夫と自分が“こだわった”意義が残らない、消えてしまうと、ここで彼女は思ったのだろうか?。