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dreamer

dreamer

4 years ago

5.0


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들불

영화 ・ 1959

평균 3.4

この市川崑監督の映画「野火」は、戦時下の極限状況での、人間性と神の問題を描いた、戦後の日本文学を代表する、大岡昇平の同名小説の映画化作品だ。 原作者の作家の大岡昇平は、戦前はスタンダール研究の第一人者で、太平洋戦争に一兵卒として召集され、フィリピン戦線で捕虜となり、戦後その厳しい戦争体験を書いた「俘虜記」で作家としてデビューした。 以後、フィリピンでの彼の戦争体験は、彼の文学の重要なモチーフとなり、いくつかの作品に書かれて深められていくが、「野火」は「俘虜記」「レイテ戦記」と共に彼の代表的な作品であり、戦後の日本文学の金字塔になっていると思う。 戦争を描いた文学作品は、数多く書かれていますが、この作品が他の多くの文学作品の中で際立っているのは、戦争の惨禍とその中での人間の惨めさを赤裸々に描いただけでなく、死の瀬戸際にじりじり追いつめられていく中で、なおかつ、"人間の尊厳"は保たれ得るものかどうかという"形而上的"な問題を、格調高く貫いたところにあるのだと思う。 大岡昇平はそこで、やや宗教的な観念に入り込んでいく。 すなわち、主人公がどんなに飢えてもついに人肉を食べることはできないという、クライマックスの重要なところで、なぜ彼にはそれができないかを、神の意志、あるいは、神の意志を心の深いところで信じている主人公自身の意志として書いているのだと思う。 それに対して、和田夏十の脚色と市川崑監督の演出による映画化作品は、大筋において原作に忠実であるが、直接、神の問題に触れることは避けていて、神が彼をおしとどめるということは、描写から除いている。 それは、小説のように言葉として、観念としては描けても、映像では描きようがないからだと思う。 太平洋戦争末期、フィリピン戦線レイテ島。 日本軍は山中に追いこまれ、飢えと疲労で極限状況に陥っていた。 映画では主人公の田村一等兵(船越英二)は、栄養失調のため、干した肉を噛もうとすると、歯がポロッと抜けて食えないという風に変えている。 これは、哀しい滑稽味の中に、人肉を食わないでよかったということを、観る者に感じさせる巧みな観念の視覚化であると思う。 市川崑監督は、初期には喜劇を好んでつくっていて、この「野火」でも敗戦の惨状をリアルに再現しつつも、そこに一種、喜劇めいた動作やセリフを散りばめているのだ。 この主人公の田村一等兵を演じている船越英二は、役作りのため絶食をして鬼気迫る演技で、体力の消耗の極致に達した敗残兵を表現するのに、よくある深刻な表情と重々しい足どりではなく、むしろ、うすら笑いに似た表情や、酔っ払ったような、ふらふらした足どりを見せるのだ。 発狂した将校なども、ある意味では喜劇的でもある。 もちろんこれは、観る者を笑わせるためでもなければ、風刺のためでもない。 むしろ、人間として生きることが不可能であるような状況の中で、なお人間であろうとして必死に頑張っている姿が、涙ぐましいほどの滑稽さとして描き出されているのだと思う。 戦場で部隊から完全にはぐれてしまって、フィリピンの山奥を放浪している兵隊。 完全に一人になってしまって、大きな風景の中で、どんどん仲間からもはぐれていくし、敵からは追われて一人っきりになっていく姿。 そして、最後に何もない広い野原の向こうに小さく煙が見える。 自分は山の中で放浪して、最後には人間の肉まで食べかけた。 人間の肉を食べてしまったら、もう、自分は人間ですらないというところまで追いつめられて、それでとにかく、人間のいるところまで行きたいと思う。 フィリピン人に見つかったら殺されるかもしれないけれども、とにかく人間のいるところに行きたいと思って山から下りて平野に出て行くのだ。 そうすると、全く何もない平野があるのだった。 これは原作にあるから、原作に忠実にやったと言えばそれまでであるが、そこにはやはり市川崑監督らしいショットが出てくるんですね。 何もない平野の向こうに野火が一筋見える。 その一筋の野火のところには人間がいるに違いないと思って、彼はそこへ歩いていく。 そうすると、向こうから鉄砲の弾が飛んでくる。殺されるかもしれない。 しかし、人間でなくなってしまうよりは人間に殺されたほうがましだと思って、手を上げたまま、そこへ歩き続けるのだった。 それがラストシーンで、そこでは人間は広い平野の中で、たったひとつの小さな点になっていく。 その遥かかなたに小さな点で煙がのぼっている。 人間というのは、どんな小さなものでもいいから、しかし、そこに確実にたどり着かなければいけない、ひとつの願いの的みたいなものを必要とするのだと思う。 むしろそれは、小さければ小さいほどいい。 祈りというのは、集中しなければいけないものだから、拡散したら祈りではないから、やはり画面の中でも、ある小さな点に向かって集中していくのだと思う。