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【私的アニメーション映画50選】 ◇宮崎駿の憤りが渦巻く映画◇ ※結末に関する記述をしています※ 好き嫌いを別にして、宮崎駿がその内に秘めた様々な思いをここまでストレートにぶつけたという意味で、この『もののけ姫』は他の宮崎アニメよりも突出した作品だと思っている。 【人の腕や頸が飛ぶ場面】 を直接描いてみせたのはそのひとつの象徴だろう。 タイトルこそ、もともと宮崎駿が考えていた『アシタカ摂記』が堅すぎるということで紆余曲折の末『もののけ姫』という、どこか親しみやすいものとなった(このタイトルが大ヒットを後押ししたのは言うまでもない)が、本作の重さは『ナウシカ』なんかの比ではない。 『ナウシカ』は未来を描き、その未来への希望をラストのナウシカの復活に託しているが『もののけ姫』にはそれがない。過去の時代が舞台、つまりそこで描かれるのは人間が(自身の繁栄のために)やってしまった、もう簡単には取り返しのつくようなものではないことだ。 クライマックス、森の象徴たるシシ神の首をはねたことで、腐っていく森。そして首をシシ神に返さんと頭上に掲げるアシタカとサン。その首を取り戻しに来たシシ神の無残な姿。 「なんだこれは!!」と思った。 宮崎駿の内部に渦巻いているものがこの場面に集約されているのではとさえ感じた。まったくの袋小路だ。 その後の場面。シシ神の首が戻ったことで腐りかけた森が再生していく。しかし、再生したその森は、かつて神々が棲み、人々が畏敬の念を抱いていた神聖なる森ではなく、まるで平原のような、人々が畏れようもない森とは言えないような森。 それは見た目はのどかだが、じっさいは死の森だ。 『ナウシカ』の腐海は死の森と畏れられながら、その地中深くでは再生への確かな息吹が息づいていたというのに・・・。 この『もののけ姫』で、一時宮崎駿は引退を口にした。そりゃそうだと思う。思いのたけをここまでぶちまけたら、次描くべきものもないだろう。ただヒットメーカーの宿命か、鈴木敏夫の意向か、自分自身の気持ちだけでは簡単に引退というわけにはいかず、結局、未だに・・・。 ところで、宮崎駿が『もののけ姫』に込めたのは絶望感だけだったのだろうか? 本作をご覧になった方であれば、ラストシーンにもうひとつの森の象徴【コダマ】が一体現れたことを憶えておられるだろう。 あれこそが、絶望しきれない宮崎駿の切なる思いなのではないだろうか。 ・・・と、公開当時は素直に思っていたのだが、あれから実に20数年。 すっかりスレてしまった私は、今ではこれは絶対に鈴木敏夫が 「宮さん、まずいよ、これじゃあ夢も希望もあったもんじゃないよ。」 とかなんとか言って、プロデューサー権限で【コダマ】を付け足させたのだと勝手に思っている。
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