
星ゆたか

幸福の黄色いハンカチ
平均 3.5
2023.4.15 NHK.TV.〈アナザーストーリーズ:運命の分岐点〉2023.4.14 高倉健と「幸福の黄色いハンカチ」より。 1977年10月1日公開作品。 私は年を明けて正月の1月3日に、2つ年上の兄と地元の映画館で見ました。 隣の兄と最後は共に涙を流した思い出の映画です。 原案はアメリカのコラムニスト、ピート・ハミルが71年10月14日付の『ニューヨーク・ポスト』紙に発表したもの。 刑務所から4年ぶりに出所した初老の男が、ニューヨークからフロリダへ向かうバスの中、乗り合わせた若い数名の客に、ポツリポツリ身の上話をし始める。 それは獄中から妻に宛てた手紙に。 再婚してくれてもいいが、もし俺が家に戻ってもいいのなら家の樫の木に、黄色いハンカチを結んでいてくれと書いたと。 バスが家に近づくに従って、男の顔はこわばる。 しかし突然若者達が歓声を上げた。 樫の木の枝に何百枚という黄色いハンカチが風になびいていたからだ。 この物語を後にアメリカのカントリー ミュージックのトニー・オーランド &ドーンが。 『幸せの黄色いリボン』 (Tie A Yellow Ribbon Round The Ole Oak Tree)という歌にして。 1973年の4月4週連続全米No.1ヒットにして人気になっていた。 ちょうど今から50年ほど前の4月。 アメリカの♪ヒットメロディの風♪に乗って日本の巷にも流れ初めた頃だ❗ その歌の内容を山田洋次監督(1931年生まれで高倉健さんと同年)が倍賞千恵子さん(1941年生まれ)から聞き。 東映の任侠映画から新たな個性の役の挑戦を目指していた高倉健さん(1931~2014:本名:小田剛一:福岡出身)に主役をお願いして映画化。大ヒットした。 高倉健さん46歳の時の。 俳優としての運命の分岐点になった代表作の一本だ。 後に山田監督は、この作品の高倉健さんのラストショット。 黄色いハンカチを見た高倉健さんの無言の表情に、撮影しながら涙が溢れたと語っている。 また最初の打ち合わせの二人だけの場でも。映画の内容に健さんが即答。 『いつ体を開けておけばいいですか』 さらに帰り際には『山田さん、今日は嬉しい日です。』と一礼し、帰っていった日のことも鮮やかに覚えているとも。 あの高倉健さんがこの映画出演話によほど嬉しかったのか。 『ドキドキするって言うんですか。 胸がときめくと言うんですかねぇ。』 と山田監督の作品依頼に対して、後のインタビューで応えてます。 またこの時映画初出演の武田鉄矢さん(49年生まれ)に高倉健さんは。 この映画は《ただいま》《おかえり》を素直に感じてもらう映画だよと語ったとか。 高倉さんの残した台本には。倍賞さんのセリフの『おかえり』の所に“赤線”が引いてあった。それはもしかしたら高倉さんが映画の中でも、あまり味わうことのなかった、平凡であるけど幸せ😆🍀の実感のある言葉だったからではないかと推測された。 それまで長い間演じてきたヤクザ渡世の人間でなく、普通の生き方の不器用な男の家庭の幸せの物語に。 高倉健さんもそのお母さん(タカノさん)にも喜んで貰えた映画だったからだそう。 家に帰ると温かく迎えてくれる人のいる平凡な幸せ😃💕。を噛みしめる映画だからと。 常々高倉健さんは映画人生の拠り所は。その著書にもある、お母さんに捧げられる映画に出続けること。 「あなたに褒めてもらいたくて」というエッセイにも、その辺の心情は書かれています。 また高倉健さんは生涯に205本の映画に出演し。 その内1956年から75年ぐらいまでの間に183本が東映作品だったとか。 多い年には一年に13本の映画出演なんてこともあったそうです。 この映画は高倉健さんの中年男と。 武田鉄矢さん桃井かおりさん(52年生まれ)の若いカップルのロードムービーの形になってますが。 この中で役を演じる健さんが鉄矢さんをさとす言葉が当時も心に残りました。 『おなごちゅうものはな、男が守ってやらないけん、大事にしてやらないけん。』 これはこの時の役の彼は、自分自身にも言っているんですけどね。 九州弁でなおさら心にしみますね。 また舞台となった北海道夕張市は炭鉱街として栄え、その後産業の転換から衰退、観光事業に変えて見たがあまり成功せず、遂には行政支援の届け出と。 激動の街の歴史を重ねたが。 その市内には今でも。 この作品のロケ地には記念館(室内には黄色いカードに訪れた人達のたくさんのメッセージ)が残され。 近くの広場には映画と同じような連なる黄色いハンカチを掲げ、高倉健さんらとの思い出を勇気に変えて。 街の再建に勤しむ人々の姿があるという。