
dreamer

エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事
平均 3.0
マーティン・スコセッシ監督の「エイジ・オブ・イノセンス」は、19世紀末に生きる男女の三角関係を描いた、大悲恋物語なのだが、観終わった後、なんて楽しい映画だったんだろうという思いで満たしてくれる、そんな作品だ。 確かに、悲しいお話には違いなく、ラストシーンでは思わず目頭が熱くなってくるのだが、それでも尚、"楽しかった"としか言いようのない、不思議な満足感を与えてくれる映画なのだ。 出だしのタイトルバックからして、もう楽しくて、ワクワクしてしまう。 繊細なレース越しに花々が高速で花弁を広げていく----という、華麗きわまりなく、しかも妖しげな香りの漂う画面なのだ。 そして、この花がやがて、オペラの舞台の黄色い花畑に繋がり、そして、客席のタキシード姿の男の衿にさした白い花に繋がっていく。 この花から花へと、よどみのない展開。 さすが、スコセッシ監督、いきなり魅了してくれる。 このオペラ劇場の場面から、次の舞踏会の場面までは、スコセッシ監督の「グッドフェローズ」のあの呼吸で、登場人物やその生活の背景が、実に手際よく紹介されていく。 カメラマンは、「グッドフェローズ」と同じミハエル・バウハウスで、空気中をスーッスーッと滑走するような、独特の呼吸を持った撮り方なのだ。 人々の顔や、インテリアの様子や、食器、キャンドル、喫煙具、花などのおびただしい雑貨にチラッチラッと視線がさまようが、その上にじいっと長くとどまることはない。 それは、あたかも"せっかちな透明人間"のような視線なのだ。 この物語の中心となるのは、一人の男と二人の女。 男は弁護士のニューランド(ダニエル・デイ・ルイス)で、ニューヨーク社交界の期待の星みたいな存在だ。 これがやはり名門の可憐な令嬢メイ(ウィノナ・ライダー)と婚約するが、何という運命の皮肉か、数年ぶりに幼なじみだったエレン(ミシェル・ファイファー)という女に再会し、たちまち恋に落ちてしまうのだ------。 要するに、ニューランドとエレンの恋は、"不倫"であり、当時のヨーロッパの社交界以上に窮屈だったらしいニューヨーク社交界を背景に、以後、一難去ってまた一難といった調子で進行していき、結局はキスを交わすだけで別れることになる。 この抱擁シーンが、とにかく凄い。 ひた走る馬車の中で、ニューランドは、こらえ切れずにエレンを抱きしめるのだが、世紀末の社交界の女の、かさ高い衣装の上からなのだ。 男は震える手で女の手袋のボタンをはずす。白い手首がほんのちょっと、のぞく。 その場面のクローズ・アップが、この映画の中ではほとんど唯一の、女の素肌に迫る描写だ。 このほんのちょっとの、素肌の露出が、何か服を全部脱がせた以上の鮮烈な効果をあげていると思う。 スコセッシ監督という男は、見かけは風采のあがらない感じなのだが、全く隅におけない男だ。 エロティシズムということが体でわかっている。 何と言ったらいいのか、素敵にいやらしいのだ。 そして映画は後半に入って、それまでおとなしく後方に控えていた妻のメイが、次第に手ごわい存在として前面にせり出して来るのだ。 この、どこまでも模範的で、それなりに聡明で、善良には違いない女を、ウィノナ・ライダーが目立ちすぎず、かと言って霞まずといった微妙な感じで、非常に巧く演じていて、あらためて彼女の魅力を実感。 それに対して、運命の女エレンを演じたミシェル・ファイファーは貧相で、よくも悪くも巷の生活感が出てしまう人なので、ヨーロッパの社交界を知っている女にはどうしても見えないが、ダニエル・デイ・ルイスとウィノナ・ライダーはぴったりの好演だ。 この二人のおかげで、この映画は成立したと言ってもいいと思う。 この映画は古風で、典型的な三角関係の話でありながら、断固として単なるメロドラマにはなっていないと思う。 ストーリーでグイグイ引っ張っていく、そういう昔風の娯楽的な力を十分に持ちながら、それだけではない、語り口それ自体に、豊かさがあり、鋭さがあり、映画の遊びや芸があるのだ。 心に秘密を持つ男が、人知れず、驚いたり動揺したりする。 こういう時、素人や三流監督は、すぐにガーンとその顔をズーム・インするわけだが、スコセッシ監督は、そんなことは絶対にしない。 ズームの代わりに相手の方を動かす。 例えば、妻がにっこり笑って近づいて来る、あの奇妙に恐ろしいシーンなどのようにだ。 それから、背景の色を変える。あの手この手で常套テクニックを避ける。 そうかと思うと、チープな娯楽映画でよく使いがちな、場面繋ぎの小道具のところだけ、スポットライトを当てるという、テクニックを平然と使ったりする。 そういう、スコセッシ監督の絢爛にして奔放なあの手この手が、観終わった後、"悲しいお話だったけど、楽しかったなあ"、という不思議な満足感に繋がるのだと思う。 タイトルバックからして花で始まったけれど、この映画にはハイ・ソサエティには欠かせない、エレガントな小道具が、ひしめき合っている。 花、夜会服、手袋、喫煙具、食器、絵画、そして新時代の贅沢な文化であったに違いない、写真や万年筆といったもの------。 ニューランドにしてもメイにしても、エレンにしても、そういう「モノ」に取り囲まれ、そういう「モノ」を使いこなす技術や流儀だけで、出来上がっているような人間たちだ。 「エイジ・オブ・イノセンス」は、このおびただしいエレガントな「モノ」の世界と、一瞬かいま見えたエレンの生々しく白い手首----この両者の相克といってもいいような話なのだ。 そういう「モノ」の群れをカメラマンののミハエル・バウハウスは、ねっとりとフェティッシュにではなく、スーッスーッと表面を撫で回すように撮っている。 これがルキノ・ヴィスコンティ監督の作品に比べると、どこか醒めた、今風の感じがするのは、そのためだと思う。 この「エイジ・オブ・イノセンス」は、"物語"が好きな人も、"映像"が好きな人も、どちらも満足させる映画になっていると思う。 そういう微妙なバランスのところを、スコセッシ監督は、悠々と綱渡りして見せたと思う。 かねがね思っていたことだが、いわゆる娯楽映画と作家主義的映画----その両方にしっかりと足を踏ん張りながら、映画を撮り続けている監督と言えば、今やスコセッシ監督が一番だろうと思う。