
dreamer

ヴェニスの商人(2004)
平均 3.2
マイケル・ラドフォード監督の「ヴェニスの商人」を観る時に、「ユダヤ人差別」の側面をどうさばくのか注目して観たが、やはり今の時代の演出になっている。 ヘブライ語の旧約聖書のページが燃えるシーンから始まり、赤い帽子をかぶせられ、ゲットーに閉じ込められるユダヤ人の「説明」から入るように、シャイロックを「狡猾な金貸し」とは描かず、不平等な扱いを受けているヴェニスのユダヤ人の苦悩と屈折が前提となっている。 だから、娘に裏切られたうえに、「人肉1ポンド」云々の有名なシーンで、窮地に追い込まれるシャイロックは、「悪役」には見えない。 キリスト教圏の権力が進出するところでは、先住民や被支配者層は、みな彼と似たような悔しさを味わったのではないかという思いが伝わってくるといった作りなのだ。 アル・パチーノが、シャイロックを演じるというので、相当のオーバーアクトに辟易させられるのではないかと心配したが、今回の彼は、実に抑えた演技をしていて、シャイロックの苦悩を見事に演じていたと思う。 恐らく、アル・パチーノの演技としても、最高の部類に属するのではないかと思う。 アントーニオのジェレミー・アイアンズは、海外に「先行投資」をする野心的な海運業者として登場し、シャイロックに唾をかけるような尊大さを見せるが、やがて、持ち船が海外で座礁し、財産を失って失意の人になるわけだが、落ち目になった時、ジェレミー・アイアンズの顔は、まさにそういうキャラクターに向いている。 彼の友人バッサーニオを演じるジョセフ・ファインズも、ヤッピー的な新興階級の先端を走っているような嫌みの顔に最適のうってつけの感じだったと思う。 ポーシャを演じるリン・コリンズは、確かに「美しい」が、「法学博士」に変装して、アントーニオを助けるほどのしたたかさはない。 もっとも、このシーンは、どう演じても、原作自体に「無理」というか、演劇的な遊びがあり、観る者はそれが誰であるかを知りながら、肉は取っても、血を流すことは許されないという名審判が出てくるプロセスを楽しめばよいのだから、リン・コリンズでもかまわないのかもしれない。 ポーシャは、裕福な階級で、父親の財産を受け継ぎ、世界の各地から、彼女を妻にしたいという「志願者」(王族までも)がやって来るわけだが、彼女を妻にできるのは、いくつもあるぎょうぎょうしい箱の一つを正しく選んだ者。 だが、このロジックというのは、女性の人格とは関係ないわけだから、ある種、金で女を買う売春・買春と同じ。 つまり、拡大解釈すれば、シェイクスピアは、「愛情」の売春化という近代の動向をこういう形で鋭く捉えていたとも考えられる。 この半世紀の間に、時代は、「造反有理」→「造反無理」→「訴訟有理」という方向をたどっているというのが、私の歴史観だが、ここで言う「訴訟」は、論理の整合性だけを主に争うという意味での訴訟である。 それは、弁護士や検事の論証能力次第で、「正義」とは無関係に、全く正反対の結果をもたらすのだ。 肉1ポンドは切り取ってもいいが、血は一滴も流すなという「法学博士」ポーシャのロジックなど、まさにこの典型であると思う。 因みに、「近代」という時代は、こうした論理的整合性をあらゆる世界に浸透させるプロセスでもある。 そして、その正当性への「信仰」が、やがて「資本主義」という名を得るのだ。 「ヴェニスの商人」の舞台となる16世紀のヴェニスは、「自由都市」として資本主義の全てのはしりが見い出せた。 アナール歴史学派の創始者の一人であるフェルナン・ブローデルは、「都市ヴェネチア」の中で、「都市国家は近代性を目ざした軽快に船を進め、通商を開き、非常に早い時期から、それと知りもせずに、一種の資本主義を創出する。その産みの親はヴェネチアだと考える人もいたほどだ」と書いている。 大詰めの裁きのシーンで、シャイロックは、ポーシャに敗北するが、それは、彼が「悪辣」だったからでも、「正義」に反したからでもなく、彼が、このドラマのキーワードともなる「契約」、「信仰」、「賭け」、「自由」、「法」などに関して、この時代から始まった決定的な意味変化を理解していなかったからだ。 シャイロックは、ある意味で、新しい時代の犠牲者だったのだ。 シャイロックは、自由都市ヴェニスの「法」を素朴に信じ、それを復讐に利用しようとした。 しかし、何かの目的に利用できるような法(それが近代法)は、別の目的にも利用可能なのだ。 シャイロックは、そういうロジックにおいて、新興勢力よりも単純すぎたという事だ。