
dreamer

私は告白する
平均 3.4
スリラーの神様、ヒッチコックの映画というと、美しいブロンドの女優を窮地に追い込み、これでもか、これでもかと怖がらせるというパターンが多い。 この事から、ヒッチコックは、女性嫌いか、女性恐怖症なのではないかと、よく言われる。 「昼顔」というマゾヒスティックな映画を撮った、巨匠ルイス・ブニュエル監督も、ひょっとしたら、女性恐怖症ではと思うのだが、大芸術家には、こういうタイプが実に多い。 彼らはその作品の中で、日頃の思いを晴らすように、性的妄想をたっぷり込めて描き上げる。 こういう男たちは、たいがい日常生活では、女性の前では弱者なのだ。 実際、ヒッチコックは、彼の妻アルマがいなければ、成功したかどうかと、言われる程、彼本人は、気弱で社交ベタで何も出来ない男だったと言われている。 そんなヒッチコックの映画の中で、美女ではなく、美男をとことん窮地に追い込むという珍しい作品が、「私は告白する」なのだ。 ヒッチコックの映画の中の男たちは、大体、美女のせいで、とんでもない事件に巻き込まれると相場が決まっているが、この映画では、それは逆で、美女は美男の主人公のために、家庭の秘密まで暴露せねばならないという目に遭うのだ。 主人公である美男のローガン牧師を演じるのは、当時、大変な人気スターであったモンゴメリー・クリフト。 「波止場」のマーロン・ブランド、「エデンの東」のジェームズ・ディーンは、クリフトが役を蹴ったおかげで、世に出て来た俳優なのだ。 そういった代役の顔ぶれを見ればわかるように、クリフトこそは、ハリウッド映画の戦後派スターの第一号と言ってもいい俳優だった。 正義と力とユーモアが総てのアメリカン・ヒーローの世界に、反抗とか、弱さとか、犠牲とか、忍耐とか、憂鬱とかいった、ナイーヴな感受性を持ち込んだ、最初の俳優だったと思う。 今でこそ忘れられた存在になってしまったが、後世のスター史においては、この俳優の存在の大きさを必ずや見直す事になるだろう。 そして、その時、この「私は告白する」も、今迄とは違った分析や評価がなされるに違いない。 クリフト扮するローガン神父は、教会の懺悔室でオットー・ケラーという男から、殺人を犯しましたという懺悔を聞く。 ケラーは、神父の力添えで、夫婦で神父の館に住まわせてもらっている男で、20ドルの金欲しさに弁護士を殺したというのだ。 神父は、罪を告白するようにと諭すのだが、ケラーは逆に、自分の罪を神父になすりつけようとする。 殺された弁護士と神父はやっかいな関係にあり、それはかつての恋人で、人妻のルス夫人との密会の場を見られ、その事を脅迫されていたのだ。 ケラーは僧衣姿に変装して、弁護士を殺し、その姿のままで現場から出てくるところを女学生に見られている。 当時、神父が怪しまれるが、神父には動機があるうえに、アリバイもないのだ。 濡れ衣を晴らすにはただ一つ、ケラーの告白を明らかにするしかないのだ。 しかし、カトリックの神父は、懺悔室での告白を、どんな事があっても、口外してはならないという掟がある。 信者の告白を漏らす事は、神の教えに背く事になるのだ。 ルス夫人は、神父が犯人ではない事を証言するために、夫の目の前で、神父への思いを赤裸々に告白する。 神への信仰を貫こうとする神父と、家庭を崩壊させても神父への愛を貫こうとするルス夫人。 宗教と不倫という、二つの題目が対立するところが見もので、ヒッチコックの映画の中では、かなり深刻なテーマを持ったものになっている。 結局、神父は最後まで懺悔を口外しないのだが、追い詰められてなお、じっと耐えるだけという神父の苦悩を、クリフトが見事に演じてみせている。 この神父は、心の動揺を見破られないように、終始、表情を変えず、神の子としてのプライドを崩そうとしない。 クリフトは、その大きく澄んだ瞳を最大限に生かし、男というよりは、悲劇に耐える青年といった風情で、観る者の同情を集めるのだ。 クリフトは実生活において、46歳で悲劇的に人生を終えたのだが、30歳ちょっとの頃のこの作品でも、すでに悲劇の匂いが漂っている。 ヒッチコック作品への出演は、これ一本だが、彼の存在が大きい作品だと思う。