코멘트
もこてょ

もこてょ

5 years ago

4.5


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케빈에 대하여

영화 ・ 2011

평균 3.4

女である私は、妊娠に対して漠然とした恐怖を抱いている。  産む時痛そうだとかそんなことではなくて、腹の中に別の命を宿しただけである日から突然「母親」として扱われなければならないということが怖い。仮に私が子供を授かったとして、私の母がしてくれたように丹念に愛情を注ぐことができるのか。飽きっぽく金魚やカブトムシの世話も長続きしなかったのに、人間の子供の面倒を大人になるまで見続けられるのか。親になることと好きな仕事を続けることを天秤にかけ、前者を取れるのか。取ったとして、後悔や働き続ける人たちへの羨慕の情を生まれてきた子供にぶつけずにいられるのか。考えただけで背筋が凍るような思いになることが昔からある。だからこそ、私にはこの映画が刺さった。  冒頭、主人公・エヴァの家や車にぶちまけられたペンキの赤が目を惹く。ペンキを落とし、好奇の視線に晒され、罵倒されるも「全て私が悪い」と言い切るエヴァ。この言葉の理由は息子ケビンの存在にある。幸せとは言えない日常と並行して彼女の過去が描かれ、終盤にはこの息子が大罪を犯したことが明らかになる。  エヴァは妊娠の発覚により作家としてのキャリアを捨てて母親になることを選んだ女性だった。しかしこれは決して本人が望んだ道ではなく、事実彼女は子供を授かったことへの喜びに満ちたほかの妊婦たちを気味の悪いもののように見やっている。出産後も我が子に興味があるようには到底思えず、喜んで子供をあやす夫に視線を向けることも無い。  不幸なのは、息子のケビンがとても聡明な男の子だったことだ。ケビンはエヴァが自分に愛情を向けていないことをかなり早期の段階からはっきりと知覚していた。自分にボール遊びをさせるのも、オムツを変えるのも、エヴァの根底にあるのは「自分への愛情」ではなく「母親=産んだ者の義務感」でしかないことを知っていて、それに腹を立て自分を見て欲しいと望んでいた。母親の愛する世界の地図を塗料で塗りたくったシーンは典型だ。地図ではなく自分を愛して欲しい、ケビンの願いが母親には届かなかったのは明らかだ。  ケビンの反抗は止まらない。母親の愛情を得ることはもちろん愛情をくれない彼女への糾弾の意味合いもあるのだろう、どこにでもいる母親のようにふるまいながらもぎこちなさが付き纏うエヴァの様子と相まって痛々しさを感じる場面が続く。しかし彼は作中一度だけ、体調を崩し年相応の子供らしく母親に甘えている。本を読み聞かせそれを嬉しそうに聞く、普通の親子らしい姿に感慨を抱いたからこそ、「育て方を学んだ」エヴァが第二子を産んでからが哀れでならなかった。  本作で特に目に付いたのが、ケビンの食べ物の扱いだ。ディナー前の鶏肉にしろライチにしろ、人間の嫌悪感を刺激する汚らしい食事シーン方や辺りにぶちまけられた食材から、彼がきちんと育てられなかったことが暗喩される。というよりこれも母親へのアピールの一環で、恐らくケビンはエヴァ以外の前では普通に食べられると考えた方が自然だろう。  エヴァはどこで気付き、どう関係を修復すれば良かったのだろうか。それが分かるなら私は冒頭のような悩みは持たなかった。ケビンが生まれたのは、両親が避妊しないという選択をしたからだ。言うなればエヴァの意思でもある。邪魔者のように扱われ本来得るはずだった愛情を受け取ることができなかったケビンはかわいそうな少年だ。しかし各所でエヴァの罪を指摘するレビューを読むと、なぜか一枚一枚爪を剥がされるような気分になってしまう。いきなりケビンを宿し母親になる覚悟を持てなかったエヴァの戸惑いが理解できる。幸せになる権利をケビンから奪ったエヴァの罪が理屈では分かるのに、どうしても好きなことを続けたかったエヴァを非難することができない。  鑑賞直後の私は、ケビンの残酷な悪魔性について、必ずしも育て方によって培われたものではないと思っていた。元々そういう素質があった所に運悪くエヴァの弱さが重なってしまい起こった悲劇なのではないだろうか、と思わずにはいられなかった。ケビンが熱を出したシーンを忘れ、蓋をしようとしていたのだろう。たぶんこの感想もまた、私の母親になることへの逃げだ。