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星ゆたか

星ゆたか

1 year ago

3.0


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스기하라 지우네

영화 ・ 2015

평균 3.3

2024.12.10 第2次世界大戦中にナチスの迫害から逃れる人々な為に。 独断で日本通運のビザを発行。 6000人あまりのユダヤ人を救った外交官·杉原畝(うね:1900~1986)の生涯を描いた作品。 監督は56歳の時のチェリン·ブラック。 米国人の父と日系米国人の母に和歌山で育てられたとの事。 出演は唐沢寿明(51歳).小雪(38歳).小日向文世(60歳).塚本高史.濱田岳.ボリス·シイツ.アグニエシュカ·クロボワスカ等。 『日本のシンドラー』と呼ばれた外交官。 必死の勉強で身に付けた語学(英·仏·独·中·露)と豊富な知識を駆使して。 インテリジェンス·オフイサー(諜報外交官)として。 1924年満州ハルピン日本領事館に。 この頃1度目の結婚.ロシア人と(映画ではロシアのスパイとされたイリーナ)がある。 ソ連とわが国との鋭い諜報活動に。 日本外交官としてソ連から。 『ペルソナ·ノン·グラータ(好ましからぬ人物)』と指定されたとか。 その後個人的感情の理由でない離婚(国の事情)。 そして日本人女性と再婚し2人の子を持ち。 37年にヘルシンキへ。 そして更に39年リトアニア·カワナスに日本領事館を開設。 このリトアニアと日本の関係には。 それより前1862年から何やらあって。 日本使節団が当時英語の話せる福沢諭吉の通訳と共に訪れている。 またリトアニア人のステポナス·カイリスというジャーナリストが。 『日露戦争の日本人の強さと抵抗力の源は何か』の書物の出版などもあり。 すでに認識のあった関係性の中で。 杉原外交官の赴任だったらしい。 40年7月ポーランドからリトアニアへ逃げてきたユダヤ難民が、どこの大使館からも拒絶され。 日本を経由して入国ビザを必要としない南米キュラソー行きの『命のビザ』を求めて。 連日日本領事館の前にたむろい、ひたすら祈り願う人々だ。 杉原畝の心の葛藤。 (どうする?ここで外務省の意向に背けば…自分は家族はどうなる?) (いいゃ、発給要件を満たしていようがいまいか、そんな事関係ない) 自分の立場より【人道·博愛·精神第一】の結論に至った。 かつて学友と謳った。 母校の自治三決(後藤新平·言)。 『人のお世話にならぬよう.人のお世話をするよう.報いを求めぬように』 ドイツ軍がロシアへ侵攻する状況になり、領事館は閉鎖。 そんな中、杉原はギリギリまでユダヤ難民のビザ申請に対応。 手書きの軽減に木彫りのスタンプを用意して応じた。 そして領事館閉鎖後はホテルで列車の出発時間スレスレにまで応じる。 そんな彼にビザを受けとった多くの人々がいつまでもその行為に感謝を忘れなかったと。 6000人の命はその後孫世代まで引き継がれ40000人にまでになると言う。 いかに一瞬の個のエゴ·殺戮の戦争で人間の世界の可能性の未来を潰しているか。 今日世界のどこかで争いの闘いがある現状にあらためてその想いを深くする。 この映画の感動はそれまででも充分なのだが。 ここから更に深く私たちが考えなければならないのは⁉️ そんな杉原畝さんの偉業に対する外務省の対応実態だ。 この後、日本が敗戦になり。 杉原畝さんも1時ソ連の収容所に入り。 47年4月に帰国したら。 6月に日本外務大臣から『例の件』(日本外務省の訓令無視でビザ発行)を理由に。 【免官】を自らの希望として告げるように示唆されたとの事。 そして外務省としては以来、一切『杉原畝という人物は外務省には存在しないし、これまでも存在しなかった』という姿勢をとり続けたというのだ。 戦後十年程して、あのビザ発行のお蔭で命びろいしたユダヤ人が、外国から『御礼に』訪ねても答えはいつも同じだったと。 元々外務省の体質として血縁関係者が多く。 派閥が物を言う所があって。 後に外務省の官僚などの杉原畝への執拗な敵意と冷淡さ(『ユダヤ人に金をもらってやったのだから金には困らないでしょ』)は戦後ずっと続き。 彼は外交官OBによる財団法人関連の仕事につき。 鎌倉に住居を構えつつ。 1960年には希望でモスクワ駐在員に。 68年に杉原畝にビザを書いて貰ったユダヤ人のニシュリが漸く彼の居場所をつきとめ。 ボロボロになったビザの紙きれを握り。 杉原畝と熱い抱擁する場面は本当に泣かされた。 (あの時貴方に助けて貰ったから…) 71年国際貿易モスクワ事務所に付き。 78年に退職帰国している。 1985年イスラエルから『諸国民の正義の人』【ヤド·ハシェム賞】の称号💫 11月にエルサレム丘記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が行われたが。 『高齢·心臓病』の理由で杉原畝の海外渡航を許さず。 代わりに四男·伸生(のぶき)が出席した。 1986年7月31日杉原畝、鎌倉市内入院病院で86歳で死去。 なおこの後ここは、イスラエル2000年集合住宅建設の為伐採撤去された事に怒った泯の声に。 政府謝罪のコメントを出したそう。 これなどは国単位の動きに。 個人の恩義を忘れぬ憤慨が状況を変える社会の図式が見てとれる。 1991年鈴木宗男外務次官が杉原幸子夫人を招き外務省の無礼を謝罪した。 ただしこの場に応じても、佐藤外務大臣は『日本降伏に伴う外務省のリストラであり懲戒処分でもないから名誉回復の必要もない』証言をしているそうだ。 2000年河野洋平外務大臣はようやく杉原畝の功績を公に認めた。 《一人の命を救う者は世界を救う》